
その生涯と功績を辿ります。
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Ⅰ 年譜

B.C. 569年頃 |
サモス島で生まれる。 |
若い頃 | アナクシマンドロスやタレスから学び、エジプトやバビロニアを旅する。 |
B.C. 539年頃 |
サモス島に戻り、そこで講義をして暮らす。 |
B.C. 529年頃 |
クロトナに引っ越し、「ピタゴラス教団」を設立する。 |
時期 不明 |
・「万物は数なり」という信条の下、集団生活を行った。 ・数の研究を行い、数を多種多様に分類した。 ・ピタゴラスの定理を証明した。 ・$~\sqrt{2}~$の通訳不能に気付いた。 ・正五角形の作図方法や黄金比を発見した。 ・正多面体の研究をした。 |
B.C. 500年頃 |
暴徒に教団の建物ごと焼かれ、その中で死去。 |
Ⅱ 生涯と功績
Ⅱー1 サモス島で誕生
ピタゴラス(Pythagoras, B.C.569頃-B.C.500頃)は、エーゲ海に浮かぶサモス島で誕生しました。
商人であった父はムネサルコス、母はピュタイスという名で、他に2人の兄がいました。
ピタゴラスは幼いころより、算数と音楽の才能を見せ、近くの町にいたタレス(Thales, B.C.625頃-B.C.547頃)や無限の概念を初めて示したアナクシマンドロスから教えを受けるほどでした。

Ⅱー2 海外での学び
タレスの助言でピタゴラスは旅に出ることを決心します。
エジプト、バビロニア、インドなどを旅することで、数学や天文学の知識と共に宗教の知識を得ました。(インドの数学は宗教的儀式と結びついたものがあった)
エジプトの数学にはそこまでの関心が無かったものの、バビロニアから吸収したものは多く、後に自身の名が付くピタゴラスの定理やピタゴラスの3つ組数、算術平均・幾何平均・小反対平均(調和平均)などを学び、サモス島へと戻りました。
Ⅱー3 サモス島での指導
30歳頃に出生地サモス島に戻ってきたピタゴラスは、学生に講義をして暮らしました。
ただ、最初は名声も実績もないピタゴラスに関して、次のような逸話が残っています。
エジプトとバビロニアを旅して学んだことを、出生地であるサモス島で教えようとしたが、学生が集まらなかった。
そこで、ある少年に代金を払って生徒になってもらった。
毎日、少年に自分の授業を受けてもらい、受けてもらった礼として、賃金を渡すということをした。
つまり、少年にとっては、授業を受けられるし、お金ももらえるというバイトであった。
そのため、ピタゴラスの貯金は底をつき、少年に「授業は今日で終わり」と告げると、少年は「お金を払うので授業を続けてください」とピタゴラスに言ったという。
しばらく講義をして暮らしましたが、サモス島での特段大きな成功はありませんでした。
そして、ピタゴラスはサモス島を離れ、南イタリアのクロトンに移る決心をします。
Ⅱー4 ピタゴラス教団
クロトンで、ピタゴラスはのちにピタゴラス教団と呼ばれる宗教的な協同体を作りました。
男女・子ども問わず入門でき、教団員はピタゴラス教徒と呼ばれ、厳しい戒律を遵守しながら共同生活を送りました。
輪廻転生を信じていた教団の戒律として、次のようなルールがありました。
- 菜食主義であること。
- 豆を食べ、白い羽には触れてはいけない。
- 財産は教徒で共有すること。
- 教徒が発見したことは教団ひいては教祖であるピタゴラスの発見とし、その発見を記録として残すようなことはしない。
- 就寝前に神々への讃歌を歌う事。
これらのルールで統率されていたため、次節以降で述べるピタゴラスの功績も、実際はピタゴラスの死後に、ピタゴラス教徒の誰かが発見したものであった可能性もあります。
Ⅱー5 万物は数なり
ピタゴラス教団は、自然は数学を通じて理解できると考えていました。
例えば、「ドレミファソラシド」で表記される音階。
これはピタゴラス音階と呼ばれていて、人間にとって聞きやすい音が出るような弦の長さの比を教団が研究し、ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドと定義しました。(現在のド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドとは若干の違いはある。詳しくは、「ピタゴラス音階」へ)
他にも各惑星までの距離の比を算出したり、星が幾何学的な図形を作って夜空を回ったりしていることから、数が天体を支配、すなわち数が万物を支配しているという万物は数なりという考え方が教団で生まれました。
そのため、教団では数を細かく研究し、分類することにも力を入れています。(→「ピタゴラスの数の研究」へ)
Ⅱー6 ピタゴラスの定理
彼の名が付いたピタゴラスの定理は、別名三平方の定理とも呼ばれ、昔から汎用且つ知名度の高い定理です。
上のような直角三角形で、次の等式が成り立つ。
\begin{equation}
a^2+b^2=c^2
\end{equation}
この定理については、ピタゴラスが生まれる1000年くらい前からバビロニアで知られていて、ピタゴラスは旅をしたときに学びました。
ピタゴラスは、この定理がなぜ成り立つのか、すなわち証明を初めて行ったため、彼の名がついています。
その証明方法とは、直角三角形をパズルのように動かした、数式を使わない方法でした。(→「三平方の定理の証明①(ピタゴラスの証明)」へ)
タレス同様、数学の定理には証明が必要であることを世に示した第一人者です。
他にも$~a^2+b^2=c^2~$を満たす自然数$~a~,~b~,~c~$の組についても、バビロニアで学んだことを土台に研究を勧めました。(→「ピタゴラスの3つ組数」へ)
Ⅱー7 通約不能
ピタゴラスの定理から、$~a^2+b^2=c^2~$を満たす数を研究するうちに、直角二等辺三角形の辺の比が自然数で表せないことに教団内で 気づき始めます。
どの辺を基準にしても他の辺が$~\displaystyle \frac{自然数}{自然数}~$で表せ無かったのです。
ピタゴラスの死後の教徒であるヒッパソス(Hippasus, B.C.5世紀中頃)が、$~\sqrt{2}~$は通約不能、すなわち無理数であることを示しました。
そして、B.C.430年頃になると教祖ピタゴラスの「万物は数なり」という信条を教団は放棄し、ギリシャ数学はさらなる発展へと進んでいきました。
ちなみに、バビロニアでも$~\sqrt{2}=1.41421296\cdots~$という値が出ていたものの、正確な値が求まらないことを示せたという点で、ギリシャ数学のほうが真理に迫っていたことがわかります。
Ⅱー8 その他の研究
Ⅱー8ー1 正多角形
ピタゴラスは正三角形、正四角形、正六角形の作図方法や相似図形の研究をし、約200年後の名著であるユークリッドの『原論』にも影響を与えています。
また、$~\sqrt{2}~$と同様に通約不能な黄金比$~\displaystyle \frac{1+\sqrt{5}}{2}~$が登場する正五角形の作図方法も知っていたと考えられています。
ピタゴラス教団のシンボルマークが下の図のような正五角形だったことがその根拠の1つでしょう。
Ⅱー8ー2 正多面体
ピタゴラスは正多面体についても研究し、正四面体、正六面体、正十二面体を発見しました。
この発見は立体幾何学の大きな前進となり、約150年後のテアイテトス(Theaetetus, B.C.415頃-B.C.369)が正八面体と正二十面体を発見し、さらには正多面体が5種類しか無いことを証明しました。(この実績もピタゴラスのものとする説もあります。)
Ⅱー8ー3 九九表
ピタゴラスは九九表と似たような$~10 \times 10~$の積の表を作りました。
これをピタゴラスの表と言い、バビロニアの数表からヒントを得ていると考えられます。
Ⅱー9 暴徒に襲われ死亡
ピタゴラス教団は学問のみならず政治にも関心を持ち始め、所在地であるクロトンの政治勢力や住民からの反感を買うようになりました。
ある日、暴徒が教団の建物は焼き討ちにし、多くの教徒と共に教祖ピタゴラスは炎の中で死亡しました。
もしくは、そこからは何とか逃れ、メタポンティオンという町で殺されたという説もあります。
いずれにせよ、この焼き討ち事件でピタゴラスが死んだことは確かで、残った教徒たちはギリシャ本土へと逃げ、その後のギリシャの発展に貢献しました。
実際、アリストテレスはピタゴラスのことをギリシャ数学の創始者と称しています。
またこの事件が無かったら、徹底した秘密主義で記録すら残していなかったため、ピタゴラス教団という存在そのものが歴史に登場しなかったかもしれません。


でも、こんな昔の時代に女性に学問が開かれていたという点は驚くべきことだね。
ちなみにタレスは教団内のテアノという女性と結婚もしたよ。

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◇参考文献等
・ヴィクターJカッツ著,上野健爾・三浦信夫監訳,中根美知代・高橋秀裕・林知宏・大谷卓史・佐藤賢一・東慎一郎・中澤聡訳(2009)『カッツ 数学の歴史』,pp.57-61,共立出版.
・中村滋・室井和男(2015)『数学史ーー数学5000年の歩み』,pp.88-94,共立出版.
・三浦伸夫・三宅克哉監訳,久村典子訳(2018)『メルツバッハ&ボイヤー 数学の歴史Ⅰー数学の萌芽から17世紀前期までー』,pp.45-55,朝倉書店.
・中村滋(2019)『ずかん 数字』,p.67,技術評論社.
・ジョニー・ボール著,水谷淳訳(2018)『数学の歴史物語』,pp.24-40,SB Creative.
・Bertrand Hauchecorne,Daniel Suratteau(2015)『世界数学者事典』,pp.399-400,熊原啓作訳,日本評論社.
・ポール・パーソンズ、ゲイル・ディクソン(2021)『図解教養事典 数学』,p.21,NEWTON PRESS
・志賀浩二(2014)『数学の流れ30講(上)ー16世紀までー』,pp.32-37,朝倉書店.
・マイケル・J・ブラッドリー(2009)『数学を切りひらいた人びと1-数学を生んだ父母たち』,pp.29-48,松浦俊輔訳,青土社.
・ピエルジョルジョ・オーディフレッディ著,河合成雄訳(2021)『幾何学の偉大なものがたり』,pp69-86,創元社.
・アダム・ハート=デイヴィス(2020)『フィボナッチの兎 偉大な発見でたどる数学の歴史』,pp.26-28,創元社.
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