ヒュパティア〜生涯と功績を解説!彼女の最期が持つ数学史的な意味は?【数学史8−8】

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ヒュパティア アイキャッチ

 知の都アレクサンドリアで、理性と学問の灯を守った女性数学者ヒュパティア

 父テオンから受け継いだ豊かな知識をもとに、数学・哲学・天文学の教育と著述に励みました。

 しかし、時代は激動の中にあり、彼女は悲劇的な最期を迎えることになります。

 ヒュパティアの死は、ヨーロッパにおける数学と学問全体に深い影を落とす出来事となりました

 今回は、数学者ヒュパティアの生涯と功績を数学史ライターFukusukeが解説!

 彼女の歩んだ道と、その影響がいかに後世の数学史に響いたのかを探っていきます。

この記事で主に扱っている時代と場所
時代紀元4世紀後半〜5世紀初頭(370年頃〜415年)
場所ローマ帝国領アレクサンドリア(現エジプト)
この記事を読んでわかること

ヒュパティアの生涯

 ヒュパティア(Hypatia、370年頃〜415年)は、4世紀末から5世紀初頭のアレクサンドリアで活動した女性数学者・哲学者です。

ヒュパティア
(出典:Jules Maurice Gaspard, Public domain, via Wikimedia Commons)

 父は数学者・天文学者として知られるテオン
 ヒュパティアは父の影響下で幼少期から学問を修め、やがて自らも講師・教育者として活躍しました。

ヒュパティアの年譜

 天文学などの実学に準ずる数学が重視されつつも、ディオファントスパップスのような大数学者が現れた3世紀〜4世紀初頭のアレクサンドリア。

 しかし、313年のローマの皇帝コンスタンティヌスによって出されたミラノ勅令で、ローマ統治下の学術環境は一変。
 ヒュパティアが生きたのは科学が衰退の一途を辿る時期であり、時代の犠牲になってしまいました。

ヒュパティアの年譜
年代出来事補足
313ミラノ勅令により、キリスト教がローマで公認されるキリスト教の勢力がこれを機に拡大し、昔からの学問は衰退の道へ。
370年頃アレクサンドリアで誕生父は数学者テオン。(アレクサンドリア図書館最後の館長)。母は幼い時に死亡。
若い頃アテネなどに留学する約10年間留学をした。
390年代父の指導の下、数学・天文学・哲学を学ぶ優れた学識を身につける
391年アレクサンドリア図書館がキリスト教徒によって破壊される昔からの思想や学問が不要とされ、イエスの教えを重視する考え方が蔓延した。
400年頃アレクサンドリアで教鞭を執る新プラトン主義の学校を開設
400年頃『円錐曲線論』『算術』などの注釈を行う数学的知識の伝承に貢献
410年代宗教対立が激化する中でも教育を継続キリスト教勢力の台頭
415年暴徒に襲撃され死亡事件後、アレクサンドリアから学者が姿を消す
529年アカデメイアが閉鎖するヨーロッパの学者の行き場がなくなり、科学の暗黒時代を迎えることに。

ヒュパティアの活動場所

 ヒュパティアはアレクサンドリアで誕生し、アテネなどに10年間留学した後、故郷アレクサンドリアで研究活動や教育活動を行いました。

 アレクサンドリアはヘレニズム世界屈指の知の都であり、ムセイオンやアレクサンドリア図書館を中心に多くの学者が集まっていました

 しかし、キリスト教の台頭に伴う学問軽視の風潮により、ヒュパティアは通勤中に暴徒に襲撃され、故郷アレクサンドリアで凄惨な最期を迎えました。

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