フェラーリ徹底解説!師を超えたフェラーリの公式とは?【数学史16-5】

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 ルドヴィコ・フェラーリは、三次方程式の解の公式の発見者であるジェロラモ・カルダーノを師に持つイタリアの数学者です。
 彼の最大の業績は、師の三次方程式の解法を土台にして、四次方程式を一般的に解く方法を見出したことにあります。

 フェラーリは1536年に14歳でボローニャからミラノへ来てカルダーノ家に入り、当初は召使いの立場にありながら、やがて秘書となり、さらに数学を学ぶ弟子となりました。
  若くして才能を認められ、カルダーノの依頼で四次方程式の研究に取り組んだことが、現在の数学史に残る発見へとつながりました。

 この記事では、フェラーリの生涯、四次方程式の解法の意味を数学史の先生であるFukusukeが丁寧に解説します。

 代数学が大きく発展した16世紀のイタリアにおいて、フェラーリはどのような役割を果たしたのでしょうか。

この記事を書いた人

Fukusuke(ふくすけ)
数学史の先生

  1. 現役の中学・高校数学教員
  2. 重刷、ブログ累計200万PV達成
  3. 行間がなくなるほど丁寧な式変形で執筆中
この記事を書いた人

Fukusuke
(ふくすけ)
数学史の先生

  • 現役の中学・高校数学教員
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  • 行間がなくなるほど丁寧な式変形で記事を執筆

この記事を読んでわかること

フェラーリの生涯

 ルドヴィコ・フェラーリ(Ludovico Ferrari, 1522年2月2日〜1565年10月5日)は16世紀のイタリアを代表する数学者です。
 日本語では、「ロドヴィコ」や「フェルラーリ」、「フェルラリ」、「フェラリ」、「フェッラーリ」などとも呼ばれます。

ルドヴィコ・フェラーリ
ルドヴィコ・フェラーリ
(出典:https://mathshistory.st-andrews.ac.uk/Biographies/Ferrari/poster/born/

 彼は同国の数学者ジェロラモ・カルダーノの弟子として、四次方程式の解法を発見したことで有名です。

フェラーリの年譜

年代出来事補足
1522年誕生1522年2月2日にボローニャで生まれたとされる。
1536年カルダーノ家に入る14歳でボローニャからミラノへ来て、カルダーノ家の召使いとなったとされる。
時期不明秘書となり数学を学ぶ読み書きの能力を認められて雑務を免除され、カルダーノの秘書となり、彼のもとで数学を学んだ。
1540年四次方程式の解法を発見したとされる1539年にカルダーノはタルタリアから三次方程式の解法を教わっており、その解法を一緒に研究する過程で四次方程式の解法を発見したとされる。
1545年『アルス・マグナ』で解法が公表されるカルダーノが三次方程式と四次方程式の解法をまとめて公表した。
1546年〜1547年タルタリアと書簡で論争をしたタルタリアの『種々の問いと発明』で、カルダーノが侮辱されたことにフェラーリが激怒。タルタリアと約1年に渡り書簡を交わし、数学試合の挑戦状を送った。
1548年タルタリアとの数学試合に勝つミラノのフラティ・ゾッコランティ修道会の庭の教会で行われた。フェラーリが優勢であったことで、タルタリアは逃走。事実上、フェラーリの勝利となった。
1565年ボローニャ大学に招かれるボローニャ大学の教授職に招かれ、故郷では姉マッダレーナと暮らしたとされる。
1565年死去忌日は1565年10月5日とされる。姉にヒ素で毒殺されたという説がある。

フェラーリの活動場所

 フェラーリはボローニャとミラノを軸に生涯を展開した数学者です。
 とくにミラノでカルダーノと出会ったことが、彼の数学的人生を決定づけました。

  • ボローニャ:フェラーリの生地であり、晩年に戻って死去した都市。 晩年に戻るきっかけとなったのは、ボローニャ大学の数学教授職に招かれたから。
  • ミラノ:1536年に移ってカルダーノ家に入り、秘書として働きながら数学を学んだ活動の中心地。
  • フラティ・ゾッコランティ修道会の庭の教会:ミラノに位置する教会。1548年8月10日の公開対決の会場とされる。
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