数学する身体

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第15回小林秀雄賞を受賞した、森田真生さんの『数学する身体』の読了記録です。
本の概要や感想を自分なりの解釈で気ままに書いています。
Ⅰ 本のデータ
Ⅱ 概要
Ⅲ 感想


目次
  • 1. Ⅰ 本のデータ
  • 2. Ⅱ 概要
  • 3. Ⅲ 感想

Ⅰ 本のデータ

タイトル 数学する身体
著者 森田 真生
出版社 新潮社
発売日 2018年5月1日
価格(税抜) 490円
ISBNコード 9784101213668


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Ⅱ 概要

 第1章は「数学する身体」。この章では、私たちにとって「数学」がどのようなものであるかということを、時代の流れとともに紹介している。
 
 元々は物を数えたり、土地の測量をしたりといった、日常の具体的な問題を解決するための道具として生まれた数学が、ユークリッドの『原論』に象徴されるように紀元前5世紀頃から、数学の正当性に重きを置かれるようになってきた。
 すなわち、「数学」が学問の1つとして扱われるようになってきたのである。
 
 数学という学問を研究すれば、また新たな疑問が出てきてそれを研究する。筆者はこの行為を「建築」に擬え、数学することの意味、醍醐味を論じている。


第2章は「計算する機械」。この章では、学問として成立した「数学」がどう成長していったかを紹介している。
 
 時代の変遷とともに、数学の研究を支える道具である図、記号が発達し、「証明」という公共的な承認の手続きがより簡易に行えるようになってきた。
 17世紀後半には「無限」の世界まで研究の範囲が広がったり、20世紀には数学の根底を揺るがす議論が生じたりした。
 
 そのような時代のうねりの中、アラン・チューリングによってコンピュータの前身ともいえる機械が構築された。
 彼は戦争という経験をしていくなかで、「機械」と「心」を結び付けようとし、今で言う「人工知能」の論考にまで及んでいる。
 
 筆者は、チューリングの「計算する機械」から「数学する機械」に向けての思考の軌跡を辿り、数学の中で切っても切り離せない「証明」や「計算」そのものの重要性を強調している。


第3章は「風景の始原」。この章では、日本の数学者・岡潔の生き方に触れつつ、数学者の見ている風景について論じる。
 
 岡潔は「多変数解析関数論」の未開の領野を切り開いた数学者で、豊かな自然の中での経験が、彼の数学への考え方に影響を及ぼしている。
 
 数学者の前にある風景や脳のはたらき、「わかる」という経験はどのようなものであるのかといったことを、筆者は岡潔の考え方を通して答えを出している。


第4章は「零の場所」。この章でも、岡潔の思想を追憶している。
 
 岡潔がニコラ・ブルバキという数学者集団の代表するアンドレ・ヴェイユと邂逅した際、ヴェイユが「数学は零から」と言ったのに対し、岡は「零までが大切」と述べた。
 これは「零」と「心」を同一視し、数学をする上で心が大切であるという思想から来ている。
 
 上記のような例を通し、筆者がなぜ岡潔という数学者に惹きつけられたのかということを述べている。


終章は「生成する風景」。この章では、1章から4章までの論を経て、チューリングと岡潔の思想、数学と心の関係、数学の生み出す風景についてまとめている。
 


Ⅲ 感想

 今回は数学を題材とした小説ではなく、数学に関するエッセイです。読んでみた感想は「ムズイ・・・・」
 でも、頑張って最後まで読み切ったので概要と感想を書いてみようと思います。(稚拙でわかりにくい文章ですみません)


 まず1章は「数学する身体」。

“数"は、人間の認知能力を補完し、延長するために生み出された道具である(p16)

 この文からもわかる通り、"数"、ひいては"数学"が人間とどう関わってきたかを表した章となっています。
 
 人間の脳は「多い」「少ない」といった漠然とした概念は把握できるものの、具体的な数に関しては数えない限りは認識できないようになっていることに納得します。
 そして、1、2、3という数は見ただけで数えられる(認識)できるものの、4以上になると判断がつきにくくなるらしい。
 しかもローマ数字のⅠ、Ⅱ、Ⅲ、、漢数字の一、二、三、にも代表されるよう、全世界・全時代に関して言えるということに驚き。
 「なぜ4は棒4本並べて表さないんだろう?」なんて疑問は今まで思いもしませんでしたが、子供に訊かれたときに答えられそうです。
 
 ページが進むにつれて、数学を取り巻く議論が中傷的になっていきます。紀元前では、数学は道具であり、必要だから使ったり学んだりという関わりでしかなかったのに対し、ユークリッドの『原論』あたりから、計算結果や定理・法則が「なぜ」成り立つかに主題を置かれるようになります。
 
 個人的に具体例を挙げるとすると、


 タレス(Thales)の時代はピラミッドの高さを求めるのに、自分の影を使って、
\begin{equation} 
(ピラミッドの影の長さ)\times(自分の身長)\div(自分の影の長さ)
\end{equation}
という式を作ったものの、紀元前5世紀頃からは、なぜこの数式で求まるのか?という点に焦点が当てられるようになった。


 タレス(Thales)の時代はピラミッドの高さを求めるのに、自分の影を使って、
 
(ピラミッドの影の長さ)×(自分の身長)÷(自分の影の長さ)

という式を作ったものの、紀元前5世紀頃からは、なぜこの数式で求まるのか?という点に焦点が当てられるようになった。

というような例があてはまるかと思います。
 
 こういった論理を大切にする姿勢が、生活と直接関係しないような数学を生み、数学という学問の流れが現代にまで続いているのであろうと感じました。
 こうした流れから、数学を学んでいる我々は「なぜ数学を学ばなければいけないの?」というような疑問は愚問のように思えます。(それは、自分も数学者同様、数学をするという行為に楽しみを見出しているからかもしれませんが・・・)
 
 抽象的な部分もありますが、全体的に読んでいて納得のしやすい章だったと思います。


 次に2章は「計算する機械」。
 道具から営みへと変化した数学が発展していく様子が綴られています。
 
 「証明」という行為を行ううえで、記号(+,ー,×,÷,=など)ができたことは今の数学を考えても欠かせないことだったと共感します。
 特に等号(=)が初めて使われたのは1557年(「=の由来」参照)というのは、筆者も述べている通り信じがたいですよね。
 毎回毎回「3+2は5と等しい」などと表現していたのでは面倒です。
 
 ただ、それは現代人の感覚で、『当時の数学はそれほどまでに自然言語に拘束されていた』と筆者も付け加えています。
 令和時代に生きる人が、携帯電話が普及していなかった20~30年前の世界に不便さを感じるのと同じような感覚なのでしょうね。
 
 数学はその後近代になり、ベルヌーイやオイラーによって無限の世界に旅立ったり、ゲーデルによって「不完全性定理」が発見されたりと大きな動きを見せます。
 その中で登場し、本書で大きく取り上げられている数学者の1人であるアラン・チューリングが登場します。
 
 2章の後半はチューリングが成し遂げたことや思想について書かれていて、個人的には「チューリング機械」や「模倣ゲーム」の具体的な話まで理解が追いつきませんでしたが、チューリングが「心」と「機械」という相反するものを繋げていくために苦心していた様子を読み取りました。
 そして、現在のコンピュータの元となる機械を思考し、現代のスマホや人工知能に繋がる考えを論文として出している等、時代の先駆する凄まじい数学者ということを理解しました。
 
 チューリングに関しては、もっと丁寧に勉強して、偉大さを理解しようと努めないといけませんね。
 「心」という言葉も登場している通り、少しずつ哲学的な内容となってきた2章でした。


 3章は「風景の始原」。
 章の始め、筆者が数学に向き合うようになったきっかけとして、岡潔の『日本のこころ』という作品を読んだことが挙げられています。
 
 筆者はこの本と出会い、「数学」と「身体」というかけ離れた2つの世界が交わる場所を確かめたいと思い、数学の道に入ったといいます。
 数学にハマる理由も人それぞれで、こういった人や本との出会いからというのは珍しく、そして目的がハッキリしていて良いなと思いました。
 
 この章の途中、脳のはたらきについて難しい専門用語も交えながら説明しています。書いてあることも理解ができそうで、概念的な部分も多く、読んでいて難しいなと感じる場面が多くありました。
 それも当然。自分が数学をするにあたって、「自分の」という意識が障害になると思ったことありませんし、「自分の」という限定を消すことが本当の「わかる」につながるだなんて考えたことありません。
 
 数学者であり、このような哲学チックなことを考える岡潔は、筆者の言う通り稀有な数学者なのかもしれませんね。


 4章は「零の場所」。
 このタイトルは、章の中で書かれている、岡潔とアンドレ・ヴェイユのやり取りから来ているものと思われます。
 
 ここで本格的に数学者としての岡潔の伝記が描かれています。
 彼が目標として据えた「ハルトークスの逆問題」。それに向けてどのような感情を抱き、数々の困難を経験しつつ取り組みを重ねていったのかを細かく描いています。
 
 我々凡人と違うなと感じるのは、次の一節。

数学的思考の大部分はむしろ、非記号的な、身体のレベルで行われているのではないか(pp162-163)

 この身体のレベルでの思考を、松尾芭蕉が句境を把握することに例え、「自分の」意識を捨てて問題を「無障害」のまま感じて解決へと導いたといいます。
 
 そして、彼にとって数学を研究することは自分を研究することと同義となり、数学と心を通わせて「わかる」境地へたどり着こうとする思想へとなっていきました。
 ん~。深い。そして、真似できない。


 最後の章は「生成する風景」。
 2章で登場したアラン・チューリングと、3,4章で紹介された岡潔の2人が、数学を通して、「心」の解明へと向かったという点で共通しているとまとめられています。
 

チューリングが、心を作ることによって心を理解しようとしたとすれば、岡の方は心になることによって心をわかろうとした(p189)

 心を研究するにあたって、チューリングは数学を道具として使い、岡潔は数学が心を研究することそのものであったといいます。
 これは1章の内容と被ってきて、数学というものが時代によって、人によって変化しうるもので、それによって見えてくる風景も変わってくるという結論に達します。
 
 この章を読み、筆者が1~4章で述べてきたことが繋がってきました。エッセイって難しいですね。
 筆者が岡潔の本を何度も何度も読み返したように、自分も何度も読んで理解することに努めなければいけませんね。
 
 数学というものを今までとは違った角度で見ることができたエッセイでした。
 読んでみようとなられた方は、是非挑戦してみてください!


 初のエッセイ感想文。勢いあまって、たくさん書きすぎちゃいました。

   
 


◇参考文献等
・森田真生(2018)『数学する身体』,新潮社.
楽天さんのサイトへ数学する身体 (新潮文庫) [ 森田 真生 ]