「0(ゼロ)の発見」や「位取り記数法」など、現代数学の根幹をなす概念を生み出したインド。
特に、古代末期から中世にかけてのインド数学は、天文学や宗教と密接に結びつきながら、独自の目覚ましい発展を遂げました。
この記事では、グプタ朝の黄金時代から、イスラーム勢力の台頭、そして南インドの交易都市で花開いたケーララ学派まで、約1500年にわたる中世インドの数学史を、世界史の流れに沿って概観します。
中世インドの数学史年表
まずは、中世インドの数学がどのような歴史的背景のもとで発展したのか、世界史の出来事と合わせて見ていきましょう。
| 年代 | 出来事 |
| 320頃 | グプタ朝が北インドを統一 →政治的安定のもとで学問が奨励された。特に、天文学や暦の計算、宗教儀式(祭壇の設計など)のために高度な数学が求められた。 |
| 476頃 | アーリヤバタ誕生 |
| 499 | アーリヤバタが『アールヤバティーヤ』を著す。 |
| 550頃 | アーリヤバタ死去 |
| 598 | ブラーマグプタ誕生 |
| 606 | ヴァルダナ朝が北インドを統一 →仏教系学問所で幅広く学問が研究された。学習内容はグプタ朝時代の成果を継承している。 |
| 628 | ブラーマグプタが『ブラーフマスプタシッダーンタ』を著す。 →$~0~$が数字として認識されるようになる。 |
| 665 | ブラーマグプタが『カンダ・カーディヤカ』を著す。 |
| 668頃 | ブラーマグプタ死去 |
| 7世紀以降 | ヴァルダナ朝崩壊後、インドは地方王朝が分立する分裂時代となった。(〜13世紀) →7世紀以降の北インドは、社会的混乱とイスラームの侵攻により、著名な数学者が輩出されなかった。 |
| 711年 | イスラームのウマイヤ朝軍がインダス川下流域に侵攻する →その後もイスラームがこの地を支配したことで、インドの書物がイスラームに流入するようになった。 |
| 10世紀後半 | イスラームのガズナ朝が北インドへ軍事遠征する |
| 1114 | バースカラ誕生 |
| 1150 | バースカラが『リーラーヴァティー』などを著す。 |
| 1185 | バースカラ死去 |
| 1206 | イスラームのゴール朝により、インドに奴隷王朝を樹立。 →これ以降、北インドはデリーを中心にイスラームの支配下に。 |
| 1340頃 | マーダヴァ誕生 |
| 14世紀後半 | マーダヴァがケーララ学派を創設する |
| 1400頃 | マーダヴァが無限級数を使って円周率を計算する |
| 1425頃 | マーダヴァ死去 |
| 17世紀 | ムガル朝により、インド全土にイスラームの支配が広がる |
中世インド前期は北部を中心に数学が発展し、アーリヤバタやブラーマグプタといった数学者たちを輩出しました。
しかし、7世紀以降はインド内部の混乱やイスラームの侵入により、北インドは学問が大きく発展できず、南インドでバースカラやマーダヴァといった数学者たちが台頭しました。
中世インドの歴史と数学史
数学史的にみて、中世インドは2つの時代に分けられます。
統一王朝と東西交流が育んだインド数学の黄金時代
4世紀初頭、グプタ朝が北インドを統一すると、インドは政治的な安定期を迎えました。
この安定は学問の発展を力強く後押しし、特に天文学や暦の計算、そして宗教儀式で必要とされる高度な数学が求められました。
宗教儀式で必要な数学は、紀元前からのインド数学の伝統とも言えます。

また、この時代はローマ帝国との活発な交易が行われた時期でもありました。
インドが香辛料や宝石を輸出する一方で、ローマの金貨やガラス製品、そしてギリシャ・ローマ世界の進んだ天文学や数学の知識がもたらされたのです。
この輝かしい時代の天才数学者アーリヤバタは、ヒッパルコス由来のギリシャ天文学の知識も取り入れつつ、独自の数学体系を構築しました。
7世紀にヴァルダナ朝が北インドを再統一しますが、天文学や数学を重視する姿勢は変わらず、ナーランダー僧院などの学問所では、グプタ朝時代の数学の成果を基盤とした研究が幅広く行われました。

(出典:This file is licensed under the Creative Commons Attribution 2.0 Generic license.)
この時代の頂点に立つのが、7世紀の数学者ブラーマグプタです。
彼は「0(ゼロ)」を単なる空位ではなく、他の数字と同じように扱える「数」として定義しました。
これは数学の歴史における革命的な出来事であり、現代数学の基礎を築く上で不可欠な一歩となりました。
分裂と交流が生んだ新たな数学の波
647年のヴァルダナ朝の崩壊後、北インドは分裂と混乱の時代に入ります。
さらに、711年のイスラームのウマイヤ朝によるインダス川下流域への侵攻を皮切りに、インドとイスラーム世界の交流が活発化します。
この過程で、アーリヤバタやブラーマグプタのインドの進んだ数学知識がイスラーム世界へと流入しました。
これらの知識はアラビア数学の発展に大きな影響を与え、やがてヨーロッパへと伝わり、世界の数学史を大きく動かすことになります。

(出典:Kaiser&Augstus&Imperator, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)
その後もイスラームの部分的支配とさらなる侵攻が続き、1206年奴隷王朝のときにはデリーをも占拠しました。

(出典:Maps created from DEMIS Mapserver, which are public domain. Koba-chanTerritorial area: पाटलिपुत्र (talk), per Schwartberg Atlas p.147, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)
北インドが政治的混乱に見舞われる中、12世紀にはバースカラが登場し、中世インド数学の集大成ともいえる業績を残します。
ブラーマグプタから続くインド数学の伝統を次世代へとつなぐ重要な役割を果たしました。
その後、数学研究の中心は、北インドの混乱を逃れるように南へと移っていきます。
14世紀後半、南インドのケーララ地方でマーダヴァが創設したケーララ学派は、中世インド数学の最後の輝きを放ちます。
しかし、このケーララ学派の高度な数学は、地理的に限定された地域でのみ継承され、インド全土や国外へ広がることはありませんでした。
16世紀初頭に成立したムガル帝国がインドの大部分を統一します。
ムガル帝国はイスラーム文化を基盤としており、ペルシャやアラビアの天文学・数学が公的な学問の中心となりました。

(出典:Nataraja at French Wikipedia, edited by Safkan at Japanese Wikipedia, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)
これにより、アーリヤバタから続くサンスクリット語を媒体としたインド独自の数学の伝統は、次第にその主流の座を明け渡し、静かに幕を閉じていったのです。
中世インドの数学者たち
中世インドでは、天文学や暦の計算といった実用的な目的から数学が大きく発展しました。
これまでに挙げてきた通り、特に重要な功績を残したのは以下の4人の数学者です。
アーリヤバタ(476年頃~550年頃)
アーリヤバタは、インド数学の黄金期であるグプタ朝で活躍した天文学者・数学者です。
彼の著書『アールヤバティーヤ』は、インドで著者名が残る最古の数学書として知られています。

(出典:Cpjha13, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)
彼は天文学の計算のために、現在の$~\sin{}~$の値を$~3.75^{\circ}~$間隔で求めました。
そのときに使ったのが、以下の複雑な公式です。
$~90^{\circ}~$までの角を24等分し、1個目($~3.75^{\circ}~$)の正弦の値を$~a_1=\displaystyle \frac{225}{3438}~$としたとき、$~n~$個目の正弦の値$~a_n~$は以下の式でつくられる。
a_n=a_{n-1}+\frac{225}{3438}-\frac{a_1+a_2+\cdots+a_{n-1}}{225}
ブラーマグプタ(598年~668年頃)
ブラーマグプタは、ヴァルダナ朝時代のインドで活躍した数学者・天文学者です。
彼の主著『ブラーフマスプタシッダーンタ』は、インド数学史における画期的な著作とされています。

(出典:https://mathshistory.st-andrews.ac.uk/Biographies/Brahmagupta/pictdisplay/)
ブラーマグプタの最大の功績は、「0(ゼロ)」を単なる空位の記号ではなく、一つの「数」として明確に定義し、その演算規則を体系化したことです。
- $~0~$+正の量=正の量
- $~0~$+負の量=負の量
- $~0~$×正の量=正の量×$~0~$=$~0~$
- $~0~$×負の量=負の量×$~0~$=$~0~$
- $~0~$÷量=$~0~$
- $~0\div0=0~$ (誤り)
一部誤った記述はあったものの、0を計算体系に組み込んだ功績は計り知れません。
また、ヘロンの公式を一般化したブラーマグプタの公式の発見でも有名です。

バースカラ2世(1114年~1185年)
バースカラ(バースカラ2世とも呼ばれる)は、北インドが分裂していたラージプート時代に活躍した数学者・天文学者です。
彼の著作『シッダーンタ・シローマニ』は、算術、代数、幾何、天文学の4部からなるインド数学の集大成で、その中の算術の部が『リーラーヴァティー』と呼ばれています。

(出典:https://mathshistory.st-andrews.ac.uk/Biographies/Bhaskara_II/pictdisplay/)
バースカラは、ブラーマグプタの0の概念をさらに発展させ、ある数を0で割った結果(ゼロ除算)を「無限量」と定義しました。
\begin{align*}
\frac{a}{0}&=\infty ~~~※\\
\infty+a&=\infty \\
\infty-a&=\infty
\end{align*}他にもペル方程式や二次方程式についての研究を行い、現代数学にもつながる功績を残しています。

マーダヴァ(1340年頃~1425年頃)
マーダヴァは、南インドのケーララ地方で活躍した数学者・天文学者で、ケーララ学派の創始者とされています。

マーダヴァの最も驚くべき功績は、無限級数を用いて円周率を計算する公式(マーダヴァ級数)を発見したことです。
\begin{align*}
\frac{\pi}{4} = 1 - \frac{1}{3} + \frac{1}{5} - \frac{1}{7} + \frac{1}{9} - \cdots
\end{align*}
これは、微分積分の考え方の萌芽であり、インド数学が到達した一つの頂点を示しています。
マーダヴァはこの公式の改良版を使って、円周率を小数点以下11桁まで正確に計算しました。

まとめ:独自の数学が世界に影響を与えた
この記事では、中世インドの数学が、王朝の興亡や社会情勢と深く関わりながら発展した歴史を解説しました。
- グプタ朝などの統一王朝期には、アーリヤバタやブラーマグプタが黄金時代を築く。
- その後、インドの分裂やイスラームの侵攻に伴い、インド北部では数学が大きな発展しなかった。
- 国内の混乱の中で、バースカラ2世がインド数学を集大成した。
- 南インドのマーダヴァが、中心に無限級数を発見してインド数学の頂点を極めた。
- ムガル帝国により、インド本来の数学は終焉を迎えた。

この後、インドの数学はどうなったの?



ムガル帝国の後、ヨーロッパの大航海時代を経てイギリスの植民地となったよ。その時代に、ラマヌジャンという大数学者がインドで誕生し、イギリス人のハーディと共同研究を行うことになるんだ。
このブログの参考文献
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- 『カッツ 数学の歴史』
- 『メルツバッハ&ボイヤー数学の歴史(Ⅰ・Ⅱ)』
- 『数学の流れ30講(上・中・下)』
- 『数学の歴史物語』
- 『フィボナッチの兎』
- 『高校数学史演習』
- 『数学の世界史』
- 『数学の文化史』
- 『モノグラフ 数学史』
- 『数学史 数学5000年の歩み』
- 『数学物語』
- 『世界数学者事典』
- 『数学者図鑑』
- 『数学を切りひらいた人々(1~5)』
- 『天才なのに変態で愛しい数学者たちについて』
- 『素顔の数学者たち』
- 『数学スキャンダル』
- 『ギリシャ数学史』
- 『古代ギリシャの数理哲学への旅』
- 『ずかん 数字』
- 『πとeの話』
- 『代数学の歴史』
- 『幾何学の偉大なものがたり』
- 『アキレスと亀』
- 『ピタゴラスの定理100の証明法』
- 『ピタゴラスの定理』
- 『フェルマーの最終定理』
- 『哲学的な何か, あと数学とか』
- 『数と記号のふしぎ』
- 『身近な数学の記号たち』
- 『数学用語と記号ものがたり』
- 『納得する数学記号』
- 『図解教養事典 数学』
- 『イラストでサクッと理解 世界を変えた数学史図鑑』(拙著)
- 『教養としての数学史』(拙著)


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