中世イスラームを代表する数学者ウマル・ハイヤーム。
詩集『ルバイヤート』で知られる「ペルシャの詩人」として認識されることが多いですが、彼の才能は数学や天文学の分野でも歴史に名を刻むほどの偉大な功績を残しています。
特に、3次方程式の体系的な研究に初めて取り組んだ数学者として、数学史において非常に重要な人物です。
ウマル・ハイヤームは、当時まだ代数的な解法が知られていなかった3次方程式に対して、幾何学的なアプローチで解を見つけ出すという画期的な方法を編み出しました。
この記事では、科学史、特に数学史において重要な足跡を残したウマル・ハイヤームの生涯と、彼の驚くべき功績の数々を数学史の先生Fukusukeがわかりやすく解説!
三次方程式は放物線で解けます!
| 時代 | 11世紀後半〜12世紀前半 |
| 場所 | ペルシャ(現在のイラン周辺) |
ハイヤームの生涯
ウマル・ハイヤーム(Omar Khayyám , 1048年頃 – 1131年頃)は、セルジューク朝時代のペルシャで活躍した学者です。
発音によっては、「オマル・ハイヤーム」や「ウマル・ハイヤーミー」と呼ばれることもあります。

出典:(Alireza Javaheri, CC BY 3.0, via Wikimedia Commons)
君主の庇護のもと、イスファハーンの天文台で研究に没頭し、正確な暦の作成や、代数学の発展に大きく貢献しました。
ハイヤームの年譜
| 年代 | 出来事 | 補足 |
| 1048年頃 | ペルシャ北東部のニーシャープールで生まれる | 「ウマル・ハイヤーム」は「テント職人」を意味する単語で、父親の職業を表していた。 |
| 1070年頃 | サマルカンドで主席裁判官アブー・ターヒルの庇護を受ける | この時期に主著『代数学』を執筆し、三次方程式の研究を行った。 |
| 1074年 | セルジューク朝の君主マリク・シャーと宰相ニザーム・アル=ムルクに招かれ、イスファハーンへ移る | 26歳の頃、代数学の論文を王に献上したとされる。 |
| 1074-1079年 | イスファハーンの天文台の責任者として、暦の改訂に従事する | ジャラーリー暦の作成に携わる。 |
| 1077年 | 『ユークリッド原論の難解な諸公理についての解説』を執筆 | 平行線公準の証明に取り組む。 |
| 1079年 | 暦の改訂計画を表明する | 天文台での調査結果をまとめる。 |
| 1092年 | 庇護者マリク・シャーとニザーム・アル=ムルクが相次いで死去 | 宮廷内の地位が不安定になり、暗殺を恐れて故郷へ戻る。 |
| 1118年頃 | マリク・シャーの息子サンジャルがスルタンになり、メルヴに招かれる | 再び宮廷の庇護を受ける。 |
| 1131年頃 | 故郷ニーシャープール、あるいはメルヴで死去 | 83歳頃。120歳まで生きたという説もある。 |
ハイヤームの活動場所
ウマル・ハイヤームはニーシャープールで生まれ、父親がテント職人だったことから、この名をつけられました。
その後、学問の中心都市であったサマルカンドで研究を行い、彼の名を一躍有名にした主著『代数学』を書き上げました。
生涯を通して、ハイヤームの主な研究場所は、当時のセルジューク朝の首都であったイスファハーン。
ここで彼は、君主マリク・シャーによって設立された天文台の責任者として、20年近くにわたり研究活動を行いました。
その後、マリク・シャーの死をきっかけにイスファハーンを離れ、ニーシャープールに戻ります。
晩年、メルヴに移って研究を行い、その地でそのまま亡くなったという説と、故郷ニーシャープールで亡くなったという説があります。
ハイヤームの功績:3次方程式を初めて体系的に研究した
ハイヤームの数学における最大の功績は、3次方程式を初めて体系的に研究したことです。
彼は主著『代数学』の中で、3次方程式の解法について詳細な考察を行っています。
3次方程式を25種類に分類した
現代の私たちは、3次方程式を一般的に $ax^3+bx^2+cx+d=0$ と表しますが、ハイヤームの時代にはまだ負の数やゼロが係数として広く認知されていませんでした。
そのため、彼は方程式の項をすべて正の数として扱う必要があり、3次以下のの方程式を次の25種類に場合分けしました。
$~a~,~p~,~q~,~r~$はすべて正の定数とする。
\begin{align*}
&(1) \quad x = a \\
&(2) \quad x^2 = a \\
&(3) \quad x^3 = a \\
&(4) \quad x^2 = qx \\
&(5) \quad x^3 = qx^2 \\
&(6) \quad x^3 = qx \\
&(7) \quad x^2 + px = q \\
&(8) \quad x^2 + q = px \\
&(9) \quad x^2 = px + q \\
&(10) \quad x^3 + px^2 = qx \\
&(11) \quad x^3 + qx = px^2 \\
&(12) \quad x^3 = px^2 + qx\\
&(13) \quad x^3 + qx = r \\
&(14) \quad x^3 + r = qx \\
&(15) \quad x^3 = qx + r \\
&(16) \quad x^3 + px^2 = r \\
&(17) \quad x^3 + r = px^2 \\
&(18) \quad x^3 = px^2 + r \\
&(19) \quad x^3 + px^2 + qx = r \\
&(20) \quad x^3 + px^2 + r = qx \\
&(21) \quad x^3 + qx + r = px^2 \\
&(22) \quad x^3 = px^2 + qx + r \\
&(23) \quad x^3 + px^2 = qx + r \\
&(24) \quad x^3 + qx = px^2 + r \\
&(25) \quad x^3 + r = px^2 + qx
\end{align*}
これらの中に$~x^3+px^2+qx+r=0~$のような場合は含まれていません。
ハイヤームの時代、正の解のみを考えていたため、正の解が1つも出ないパターンは考える必要がなかったのです。
ハイヤームは上記の全25パターンについて、幾何学的な解法を示しました。
これは、3次方程式の問題を整理し、一般的に議論するための重要な第一歩でした。
円錐曲線で幾何学的に解いた
3次方程式を場合分けするという思考は、約250年前のフワーリズミーが2次方程式で行ったことを考えれば、自然な流れと言えます。
ハイヤームの3次方程式への考察が画期的だったのは、円錐曲線(放物線、双曲線、楕円)の交点として3次方程式の解を求めたことでした。
この考え方の元祖は、古代ギリシャの数学者メナイクモスが$~¥sqrt{3}{2}~$の長さを円錐曲線から求めたことです。

ハイヤームはこれを拡張し、先に分類した25パターンの3次方程式のパターンについて、同様の幾何学的解法を与えました。
例として、ハイヤームの3次以下の方程式の分類 の(19)の解法を見てみましょう。
$~p, q, r~$を正の実数とする。
3次方程式 $~x^3 + px^2 + qx = r~$ の解は、次の2つの図形の交点の$x$座標である。
\begin{cases}
\text{円}: y^2 = (x+p)\left(\displaystyle\frac{r}{q} - x\right) \\
\text{双曲線}: x(\sqrt{q}+y) = \displaystyle\frac{r}{\sqrt{q}}
\end{cases}
ただし、$x = \frac{r}{q}$は除く。
注意点として、ハイヤームは円や双曲線といった図形を、方程式で表したわけではなく、作図の中で解の位置を求めました。
図形を方程式で表すことについては、500年以上経った後のデカルトが始めた解析幾何学(座標幾何学)が誕生してからとなります。
$~x^3 + 6x^2 + 3x = 10~$の場合、$~p = 6, q = 3, r = 10~$なので、
\begin{cases}
\text{円}: y^2 = (x+6)\left(\displaystyle\frac{10}{3} - x\right) \\
\text{双曲線}: x(3+y) =\displaystyle \frac{10}{\sqrt{3}}
\end{cases}の交点の$~x~$座標が解。(ただし、$~x = \frac{10}{3}~$を除く)
実際に図をかくと、次のようになる。

よって、$~x = -5, -2, 1~$が解である。※
※ハイヤームは正の解のみを認識している
円と双曲線の交点の座標から、三次方程式の解が求められる理由は次の通りです。
円と双曲線の方程式を連立する。
双曲線の方程式を変形すると、
\begin{align*}
x(\sqrt{q} + y) &= \frac{r}{\sqrt{q}}\\
\sqrt{q}x + xy &= \frac{r}{\sqrt{q}}\\
xy &= \frac{r}{\sqrt{q}} - \sqrt{q}x\\
xy &= \sqrt{q}\left(\frac{r}{q} - x\right) \cdots ①
\end{align*}であり、$~①~$の両辺を2乗して、円の方程式を代入すると、
\begin{align*}
x^2y^2 &= q\left(\frac{r}{q} - x\right)^2\\
x^2(x+p)\left(\frac{r}{q} - x\right) &= q\left(\frac{r}{q} - x\right)^2\\
x^2(x+p) &= q\left(\frac{r}{q} - x\right) \quad \left(\text{ただし、}x \neq \frac{r}{q}\right)\\
x^3 + px^2 &= r - qx\\
x^3 + px^2 + qx &= r\\
\end{align*}となるため、円と双曲線の交点の$~x~$座標は、$x^3 + px^2 + qx = r$を満たすことが言えた。(ただし$x \neq \frac{r}{q}$)$~\blacksquare~$
また、ヨーロッパでジェロラモ・カルダーノが3次方程式の代数的な解の公式を発見する450年も前のことであり、ハイヤームの洞察がいかに先進的であったかを示しています。
ハイヤームの功績∶平行線公準の証明に取り組んだ
ハイヤームは、ユークリッド幾何学の根幹に関わる問題にも挑戦しました。
それが、ユークリッドの『原論』に書かれている第5公準(平行線公準)の証明です。
二つの直線と交わる直線の同じ側の内角の和が二直角($~180^{\circ}~$)より小さいならば、二つの直線を同じ側に伸ばしていけばいつかは交わること。

第5公準は、以下の第1公準から第4公準と比べて複雑であったことから、第5公準を他の公準から示そうと考えたのです。
公準1:任意の点から任意の点へ直線(線分)を引くこと。
公準2:任意の直線(線分)を連続して伸ばすこと。
公準3:任意の中心と任意の半径の円を描くこと。
公準4:すべての直角は互いに等しいこと。

サッケリの四辺形を利用した
彼は1077年の著作『ユークリッド原論の難解な諸公理についての解説』の中で、平行線公準を証明するために、次のような特殊な四辺形を用いました。
四角形$~ABCD~$において、$~AB=DC~$、$~\angle B=\angle C=90^{\circ}~$のとき、この四角形をサッケリの四辺形という。



この四辺形は、18世紀のイタリアの数学者ジョヴァンニ・サッケリが同様の研究で用いたため、彼の名が付けられています。
ハイヤームは、この四辺形の$~/angle A~$と$~\angle D~$が「直角である」「鋭角である」「鈍角である」という3つの可能性を考察し、鋭角と鈍角の場合を仮定すると矛盾が生じることを示そうと考えたのです。
これが示されれば、頂点の角度が直角でなければならない、すなわち平行線公準が証明されると考えました。
非ユークリッド幾何学の源流
ハイヤームの証明は、平行線公準の証明を完遂することはできませんでした。
しかし、彼のこの試みは1世紀後のナッシールッディーン・トゥースィーによって再分析され、サッケリの四辺形の鋭角仮定や鈍角仮定が成り立つ非ユークリッド幾何学の発想が生まれました。


ハイヤームの先駆的な研究は、ガウス、ボヤイ、ロバチェフスキーといった非ユークリッド幾何学の創始者たちに影響を与えた可能性が指摘されており、幾何学の歴史における一つの大きな転換点として評価されています。
ハイヤームの功績∶ジャラーリー暦を作った
ハイヤーム以前のイスラーム諸国では、1ヶ月が29日と30日の月を交互に設けて1年を354日とし、閏年を適当に挿入して季節と合うようにしていました。
ハイヤームは、セルジューク朝の君主マリク・シャーの命によって、精度が非常に高い暦を作成しました。
グレゴリオ暦よりも精度が高い
ハイヤームは、イスファハーンの天文台で長期間にわたる天体観測を行い、1年の長さを極めて正確に算出しました。
そして、改訂を命じたスルタンの名にちなんだ、「ジャラーリー暦」を作成しました。
ジャラーリー暦の閏年は、最初の7回は4年ごと、8回目はその5年後に置かれる。
すなわち、33年間の中で、以下の8回が閏年となる。
4年目, 8年目, 12年目, 16年目, 20年目, 24年目, 28年目, 33年目
ジャラーリー暦では、1年の平均の長さが約365.2424日で、誤差は5000年ごとに1日。
現在のグレゴリオ暦では、1年の平均の長さが365.2425日で、誤差は3300年ごとに1日とされています。
地球の実際の公転周期が365.2422日であることを踏まえると、ジャラーリー暦のほうが精度が高かったのです。
運用しづらい暦だった
ジャラーリー暦は非常に正確でしたが、上記をご覧の通り、その閏年の置き方は複雑でした。
現在のグレゴリオ暦は、ジャラーリー暦よりもわかりやすいルールで運用されています。
グレゴリオ暦の閏年は、次のルールに従って置かれる。
- 西暦年が4で割り切れる年は閏年とする。
- ❶のうち、西暦年が100で割り切れる年は平年とする。
- ❷のうち、西暦年が400で割り切れる年は閏年とする。
すなわち、400年間の中で
100年目 , 200年目 , 300年目以外の4の倍数の年が閏年
それに対し、ジャラーリー暦は33年で1つの周期であり、何年かすると閏年がわかりづらくなってしまいます。
ジャラーリー暦とグレゴリオ暦を、西暦1年からそれぞれ適用し始めた場合の2000年〜2100年の閏年は次の通りです。

ジャラーリー暦は、33年周期を考えるのに苦労するのがわかります。
このような運用しづらさが露呈したことや、セルジューク朝の衰退により、ジャラーリー暦は使われなくなってしまいました。
ハイヤームのエピソード:詩集『ルバイヤート』が有名
科学者としての偉大な業績の一方で、ハイヤームは詩人としての顔も持っていました。
彼の作った四行詩集『ルバイヤート』は、ペルシャ文学の最高傑作の一つとして、今日でも世界中で愛読されています。
葡萄の木、おまえは長いあいだ土の下で眠るのだ
友人がなく、恋人がなく、仲間も、妻も
前日に、誰にも決して、秘密を漏らさず
萎れたチューリップは、決してもう咲かない『世界数学者事典』p358より
昔いた人も、今いる人も
皆次々に跡をおっていく。
この世の王国に永久に留まる人なく、
来ては去り、また来ては去る。『高校数学史演習』p78より
日々の糧、神の定めたものだから、
減らしも増やしもできない。
あるもので満足せねばならないし、
ないものにも満足せねばならない。『高校数学史演習』p78より
『ルバイヤート』は上記の3つの詩のように、人生のはかなさ、運命、喜び、そして死といった普遍的なテーマが、美しい言葉で綴られています。
1859年にイギリスの詩人エドワード・フィッツジェラルドによって英訳されたことで、『ルバイヤート』は欧米で爆発的な人気を博し、ハイヤームの名は「詩人」として世界に知れ渡ることになりました。
数学者としてのハイヤームの功績が評価されるのは「詩人」として注目された後であり、『ルバイヤート』でハイヤームの名が知れ渡らなければ、彼の数学の業績も埋もれていたかもしれません。
まとめ
今回は、詩人として、そして偉大な数学者・天文学者として、二つの世界に大きな足跡を残したウマル・ハイヤームについて解説しました。
- 3次方程式を体系的に研究し、幾何学的に解いた
- 平行線公準の証明に挑み、非ユークリッド幾何学の扉を開いた
- グレゴリオ暦より正確なジャラーリー暦を作成した
- 詩集『ルバイヤート』は世界的なベストセラーになった

グレゴリオ暦の100の倍数に関するルールも複雑だと思っていたけど、ジャラーリー暦はもっと複雑なんだね。



でも、ジャラーリー暦では、1〜6ヶ月目は31日、7〜11ヶ月目は30日、12ヶ月目は29日(閏年は30日)と、各月の日数は覚えやすかったんだ。
「246911」を覚えなくて良いということだね。
このブログの参考文献
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- 『カッツ 数学の歴史』
- 『メルツバッハ&ボイヤー数学の歴史(Ⅰ・Ⅱ)』
- 『数学の流れ30講(上・中・下)』
- 『数学の歴史物語』
- 『フィボナッチの兎』
- 『高校数学史演習』
- 『数学の世界史』
- 『数学の文化史』
- 『モノグラフ 数学史』
- 『数学史 数学5000年の歩み』
- 『数学物語』
- 『世界数学者事典』
- 『数学者図鑑』
- 『数学を切りひらいた人々(1~5)』
- 『天才なのに変態で愛しい数学者たちについて』
- 『素顔の数学者たち』
- 『数学スキャンダル』
- 『ギリシャ数学史』
- 『古代ギリシャの数理哲学への旅』
- 『ずかん 数字』
- 『πとeの話』
- 『代数学の歴史』
- 『幾何学の偉大なものがたり』
- 『アキレスと亀』
- 『ピタゴラスの定理100の証明法』
- 『ピタゴラスの定理』
- 『フェルマーの最終定理』
- 『哲学的な何か, あと数学とか』
- 『数と記号のふしぎ』
- 『身近な数学の記号たち』
- 『数学用語と記号ものがたり』
- 『納得する数学記号』
- 『図解教養事典 数学』
- 『イラストでサクッと理解 世界を変えた数学史図鑑』(拙著)
- 『教養としての数学史』(拙著)


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