ウマル・ハイヤーム〜生涯と功績を解説!三次方程式の解法や新しい暦とは?【数学史10-7】

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 中世イスラームを代表する数学者ウマル・ハイヤーム

 詩集『ルバイヤート』で知られる「ペルシャの詩人」として認識されることが多いですが、彼の才能は数学や天文学の分野でも歴史に名を刻むほどの偉大な功績を残しています。

 特に、3次方程式の体系的な研究に初めて取り組んだ数学者として、数学史において非常に重要な人物です。

 ウマル・ハイヤームは、当時まだ代数的な解法が知られていなかった3次方程式に対して、幾何学的なアプローチで解を見つけ出すという画期的な方法を編み出しました。

 この記事では、科学史、特に数学史において重要な足跡を残したウマル・ハイヤームの生涯と、彼の驚くべき功績の数々を数学史の先生Fukusukeがわかりやすく解説!

 三次方程式は放物線で解けます!

この記事で主に扱っている時代と場所
時代11世紀後半〜12世紀前半
場所ペルシャ(現在のイラン周辺)
この記事を書いた人

Fukusuke(ふくすけ)
数学史の先生

  1. 現役の中学・高校数学教員
  2. 著書2冊重刷、ブログ累計200万PV達成
  3. ブログでは、式変形をとにかくていねいに記述
この記事を書いた人

Fukusuke(ふくすけ)
数学史の先生

  • 現役の中学・高校数学教員
  • 著書2冊重刷、ブログ累計200万PV達成
  • ブログでは、式変形をとにかくていねいに記述
  • 作図や文章校正、Texの打ち込みは文系妻が担当

この記事を読んでわかること

ハイヤームの生涯

 ウマル・ハイヤーム(Omar Khayyám , 1048年頃 – 1131年頃)は、セルジューク朝時代のペルシャで活躍した学者です。
 発音によっては、「オマル・ハイヤーム」や「ウマル・ハイヤーミー」と呼ばれることもあります。

ウマル・ハイヤーム
ウマル・ハイヤーム
出典:(Alireza Javaheri, CC BY 3.0, via Wikimedia Commons)

 君主の庇護のもと、イスファハーンの天文台で研究に没頭し、正確な暦の作成や、代数学の発展に大きく貢献しました。

ハイヤームの年譜

ハイヤームの年譜
年代出来事補足
1048年頃ペルシャ北東部のニーシャープールで生まれる「ウマル・ハイヤーム」は「テント職人」を意味する単語で、父親の職業を表していた。
1070年頃サマルカンドで主席裁判官アブー・ターヒルの庇護を受けるこの時期に主著『代数学』を執筆し、三次方程式の研究を行った。
1074年セルジューク朝の君主マリク・シャーと宰相ニザーム・アル=ムルクに招かれ、イスファハーンへ移る26歳の頃、代数学の論文を王に献上したとされる。
1074-1079年イスファハーンの天文台の責任者として、暦の改訂に従事するジャラーリー暦の作成に携わる。
1077年『ユークリッド原論の難解な諸公理についての解説』を執筆平行線公準の証明に取り組む。
1079年暦の改訂計画を表明する天文台での調査結果をまとめる。
1092年庇護者マリク・シャーとニザーム・アル=ムルクが相次いで死去宮廷内の地位が不安定になり、暗殺を恐れて故郷へ戻る。
1118年頃マリク・シャーの息子サンジャルがスルタンになり、メルヴに招かれる再び宮廷の庇護を受ける。
1131年頃故郷ニーシャープール、あるいはメルヴで死去83歳頃。120歳まで生きたという説もある。

ハイヤームの活動場所

 ウマル・ハイヤームはニーシャープールで生まれ、父親がテント職人だったことから、この名をつけられました。

 その後、学問の中心都市であったサマルカンドで研究を行い、彼の名を一躍有名にした主著『代数学』を書き上げました。

 生涯を通して、ハイヤームの主な研究場所は、当時のセルジューク朝の首都であったイスファハーン
 ここで彼は、君主マリク・シャーによって設立された天文台の責任者として、20年近くにわたり研究活動を行いました。

 その後、マリク・シャーの死をきっかけにイスファハーンを離れ、ニーシャープールに戻ります。
 晩年、メルヴに移って研究を行い、その地でそのまま亡くなったという説と、故郷ニーシャープールで亡くなったという説があります。

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