タルタリアは、16世紀前半の北イタリアで活躍した数学者です。
本名はニコロ・フォンタナで、「タルタリア」は吃音を持つ人を意味する通称として伝えられています。
彼の数学者としての功績は、3次方程式のうち特殊な形の解法を見つけたことであり、その解法は後にカルダーノへ伝えられ、1545年の『アルス・マグナ』公刊につながりました。
しかし、このことが原因でタルタリアとカルダーノは対立。
最終的にタルタリアは数学界から姿を消すことになりました。
この記事では、彼が名を博した3次方程式の特殊系の解法だけでなく、カルダーノとの確執、悲劇的な生い立ち晩年など、タルタリアの数学史における情報を数学史の先生Fukusukeが徹底解説します。
タルタリアの生涯
ニコロ・フォンタナ(Niccolò Fontana , 1499年頃-1557年)は、「タルタリア(Tartaglia)」というあだ名でよく知られる、16世紀イタリアの数学者です。

(出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons)
近年の研究では、「フォンタナ」という姓を使った記録はなく、自身の遺言書でも「ニコロ・タルタリア」と記名していました。
タルタリアの年譜
タルタリアの生涯を年表形式でまとめます。
| 年代 | 出来事 | 補足 |
|---|---|---|
| 1499年頃 | 誕生 | 生年は1499年または1500年頃とされる。 |
| 1512年 | ブレーシャで重傷を負ったとされる | 父を早くに亡くして貧しい暮らしの中、フランス軍がブレーシャを占領。攻撃の際の負傷が発話障害の由来として伝えられている。 |
| 「タルタリア」と呼ばれるようになる | 顔の傷を隠すために髭を生やしたものの、話すのが困難であり、「タルタリア(どもり)」というあだ名で呼ばれるようになった | |
| 1516〜1518年 | ヴェローナで数学を教える | 独学で学んだ数学で才能を発揮。数学教師として生計を立てた。 |
| 1534年 | ヴェネツィアへ移る | 以後、ヴェネツィアの数学教師として活動した。 |
| 1535年2月 | フィオーレと数学試合を行う | 三次方程式の解法を初めて発見したシピオーネ・デル・フェッロの弟子がフィオーレ。 |
| 1535年2月中旬 | 三次方程式の解法の着想を得た | フィオーレとの試合中に、出題された$~x^3+x=b~$の形の三次方程式を解く方法を発見した。 |
| 1539年 | カルダーノに解法を伝える | カルダーノによってミラノへ招待され、秘密保持の誓約のもとで、詩の形で解法を教えたとされる。 |
| 1546年 | 『種々の問いと発明』を刊行 | 前年に3次方程式の解法がカルダーノによって発表されたことを受け、タルタリア自身の言い分とカルダーノへの文句を書いた。 |
| 1548年 | フェラーリとの公開試合 | カルダノの弟子がフェラーリ。『種々の問いと発明』での師への侮辱に激怒したフェラーリがタルタリアに数学試合を申し込んだ。フェラーリの才能にタルタリアは逃げ出し、タルタリア数学の表舞台から消えた。 |
| 1557年 | 死去 | ヴェネツィアで貧困の中、亡くなったとされる。 |
タルタリア活動場所
- ブレーシャ:生誕地と結び付けられる都市である。幼少期の負傷と「タルタリア」という呼び名の由来も、この町を舞台に語られることが多い。
- ヴェローナ:1516年から1518年にかけて数学を教えていた場所。
- ヴェネツィア:1530年代以降の主要な活動拠点である。数学教師で生計を立てたものの、生涯貧困であった。
- ミラノ:1539年にカルダノに招かれて訪れた場所であり、1548年にはフェッラーリとの公開試合の舞台にもなった。
タルタリアの功績:特殊な形の三次方程式を解いた
タルタリアの最大の功績は、現在の表記でいう$~x^3+px+q=0~$の形をした三次方程式の解の公式を発見したことにあります。
タルタリアよりも前に、同国の数学者シピオーネ・デル・フェッロ(Scipione del Ferro , 1465年2月6日〜1526年11月5日)が同様の公式を導き、弟子のフィオーレと義理の息子ナーヴェに伝えていましたが、タルタリアは彼らとは独立して公式を発見したのです。
数学試合中に公式を閃いた
16世紀イタリアの数学者たちは、公開の場で問題を出し合う「数学試合」で腕を競っていました。(後述)
1535年、タルタリアはヴェネツィアでの名声を得るため、フィオーレとの数学試合に臨みます。
フィオーレは、師のデル・フェッロから伝わっていたとされる三次方程式の解法を武器にしており、それに関する問題を多く出題しました。
タルタリアは、試合の直前または最中に決定的な着想を得て、フィオーレが出した三次方程式の問題を次々に解いたと伝えられています。
タルタリアが見つけた解法
当時は負の数が一般的な計算対象として受け入れられていなかったため、現代なら同じとみなす三次方程式も、別々の型として扱われていました。
\begin{cases}
x^3+px&=q\\
x^3&=q+px ~~~~~~\underset{現在}{\longrightarrow} ~~~~~x^3+px+q=0\\
x^3+q&=px\\
\end{cases}
ここでは、現代の表記方法で表される三次方程式$~x^3+px+q=0~$に対し、タルタリアが解に向けてどのようにアプローチしたのかを解説します。
(詳しい解法についてはこちら→三次方程式の解の公式)
三次方程式$~x^3+px+q=0~$について、$~x=u+v~$とおくと、三次方程式は以下の形になる。
(3uv+p)(u+v)+(u^3+v^3+q)=0
この式を成り立たせるためには、次の2つの方程式を満たすように$~u~,~v~$を決める必要がある。
\begin{cases}
3uv+p&=0 \\
u^3+v^3+q&=0
\end{cases}上の式を下の式に代入して$~v~$を消去すると、
u^6+qu^3-\left( \frac{p}{3} \right)^3=0 となるため、$~u^3~$に関する二次方程式として、解の公式を用いれば、
u^3=-\frac{q}{2}\pm\sqrt{\left( \frac{q}{2} \right) ^2 + \left( \frac{p}{3} \right) ^3 } であり、ここから
v^3=-\frac{q}{2}\mp\sqrt{\left( \frac{q}{2} \right) ^2 + \left( \frac{p}{3} \right) ^3 } が求められるため、$~x=u+v~$は以下の解となる※。
x=\sqrt[3]{-\frac{q}{2}+\sqrt{\left( \frac{q}{2} \right)^2+\left( \frac{p}{3} \right)^3}} +\sqrt[3]{-\frac{q}{2}-\sqrt{\left( \frac{q}{2} \right)^2+\left( \frac{p}{3} \right)^3}}\\※実際は3乗根をとるときに、複素数の範囲まで考える必要があるものの、タルタリアの時代は実数までの範囲しか考えられていなかった。

カルダーノに詩で伝えてしまった
1539年、タルタリアはカルダーノに招かれました。
そして、三次方程式の解法を公表しないという誓約を受けたうえで、自分の解法を詩の形で以下のように伝えました。
この解法は三次方程式$~x^3+px=q~$の形について述べたものです。
「モノ」の立方といくつかの「モノ」との和で,
何か別の数ができるとき,
差がその数になるような異なる2数を定めよ.
ただし, このことは規則として守られねばならぬ, すなわち
それら [2数] の積が常に
「モノ」の数の 1/3 を立方したものに等しいということ.
すると, [2数] の3乗根の差をとると,
一般的に言って,
欲していた解が得られるだろうカッツ『数学の歴史』p409より引用
これは、当時の代数学がまだ記号化の途中にあり、規則を韻文で記憶・伝達する文化が残っていたことを示しているのと同時に、カルダーノが亡くなったときに、メモから三次方程式の解法が人目に触れるのを避けたと言われています。
その後カルダーノは、1543年にシピオーネ・デル・フェッロが先に一部の型を解いていたと知り、1545年の『アルス・マグナ』で三次方程式解法を公表しました。
カルダーノにとって、デル・フェッロの遺稿から解法を確認したことで、タルタリアとの約束を守る必要が無くなったのです。
タルタリアにとっては、自分の切り札を一方的に公開された出来事となり、彼の数学者人生が暗闇へと向かっていきました。
(以下の記事でカルダーノとタルタリアの詳しいやりとりを解説しています。)

タルタリアのエピソード:数学試合で名声を得て、数学試合で信頼を失った
数学試合とは人生を左右する血のない決闘
16世紀イタリアでは、数学者同士が公開の場で問題を出し合う「数学試合」が盛んでした。
数学試合は以下のようなルールで行われます。
- 一方の数学者がライバルに挑戦状を送り、相手がそれを受諾することで試合が成立する。
- 互いに同数(30問程度が一般的)の数学の問題を作成し、交換する。ただし、出題する問題は自分自身が解き方を知っている問題でなければならない。
- 問題を解くための制限時間が設けられる。数十日から数ヶ月程度の期間が一般的であった。
- 決められた期限の日に、公開の場で解答をすり合わせる。
- 相手の問題をより多く正解した方が勝者となる。
勝者は数学の実力が認められることになるため、大学の教授職やパトロンからの多額の援助を得ることができました。
また、観客である富裕層からの賞金の獲得や、敗者からの饗応などの取り決めが置かれることもあり、数学試合での勝利は生活の豊かさに直結しました。
その一方で、敗者は学界での権威を失墜し、大学を解雇されるなど社会的に抹殺されるリスクを背負っていました。

フィオーレとの試合に勝った
1535年のフィオーレとの公開試合は、タルタリアの名を一躍広めた出来事でした。
両者は30題ずつ問題を出し合ったと伝えられています。
- タルタリアからの出題:あらゆる種類の数学の難問
- フィオーレからの出題:三次方程式$~x^3+px+q=0~$に関する問題
フィオーレは師匠であるデル・フェッロ直伝の三次方程式であれば、相手は解けないと考えていたのでしょう。
しかし、結果は次のように伝えられています。
- 勝利! タルタリアの結果:すべて、あるいはほとんど解いた
- 敗北! フィオーレの結果:全く解けなかった
この結果は、フィオーレが並の数学者であることを世間に決定づけました。
それに対し、タルタリアは三次方程式(特殊形)が解ける人物としての学問上の名誉や、教師としての信用や社会的地位を手に入れたのです。
ヴェネツィアで行われたこの数学試合の結果は、約300km離れたミラノのカルダーノに伝わることとなりました。
フェラーリとの試合に負けた
1545年、タルタリアの三次方程式の解法をカルダーノが発表したことを受け、タルタリアは翌年に出版した著書の中で、カルダーノを強く非難しました。
タルタリアは、三次方程式の解法の先取権を主張するだけでなく、カルダーノの出生や家庭に関するプライベートのことまで暴露。
カルダーノを慕うルドヴィコ・フェラーリは、タルタリアに激怒します。
書簡でのやりとりの後、その論争は数学試合へと発展しました。
そして、1548年にミラノで行われた数学試合。
初日の後にタルタリアが去り、事実上フェラーリの勝利となったため、三次方程式の解法はカルダーノの物として認識される様になりました。
タルタリアはその後、数学で生計を立てていくことが難しくなり、貧困の中1557年に亡くなりました。
まとめ
タルタリアは、特殊な形の三次方程式の解法を見つけ、1535年の数学試合でその力を実証した16世紀イタリアの数学者でした。
- タルタリアの本名はニコロ・フォンタナで、タルタリアは「どもり」を意味するあだ名だった。
- 三次方程式(特殊形)の解法を独力で編み出し、フィオーレとの数学試合で勝利した。
- カルダーノに解法を伝えたが、誓いを破られ勝手に公表された。
- カルダーノの弟子フェラーリとの数学試合に負け、地位と名誉を失った。

数学で身を立てたのに、数学で身を滅ぼしてしまったんだね……
カルダーノにも少し落ち度があるけれど、書籍でプライベートとか家庭環境とかを暴露するのは良くなかったね。
-アイキャッチ.jpg)



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