ナスィールッディーン・トゥースィーは、13世紀に活躍した中世イスラーム世界を代表する科学者です。
彼の功績は数学、天文学、哲学など多岐にわたります。
特に数学の分野では、三角法を一つの独立した学問として完成させ、後のヨーロッパ数学に絶大な影響を与えました。
また、2000年来の難問であった平行線公準の研究においても、イスラーム世界の知見をヨーロッパに繋ぐ重要な役割を果たしています。
この記事では、ナスィールッディーン・トゥースィーの生涯と功績、そして彼が果たした「橋渡し役」としての重要性について、現役数学教員で、数学史の先生であるFukusukeが詳しく解説します。
モンゴル帝国が世界を席巻する激動の時代に、科学の灯を守り抜いた偉大な学者の姿を一緒に見ていきましょう。
トゥースィーの生涯
ナスィールッディーン・トゥースィー(Naṣīr al-Dīn al-Ṭūsī、1201年〜1274年)は、13世紀のイスラーム世界を代表する数学者・天文学者です。

出典:(scan of stamp 30 May 2006, Public domain, via Wikimedia Commons)
現在のイラン北東部のトゥースで生まれ、若くして数学、天文学、哲学、医学などあらゆる学問を修めました。
モンゴル帝国の侵攻という激動の時代に、フレグ・ハーンの庇護を受けてマラーガ天文台を建設し、そこで数々の画期的な研究を行ったことで名を残しています。
トゥースィーの年譜
| 年代 | 出来事 | 補足 |
| 1201年 | ペルシャのトゥースで生まれる | 現在のイラン北東部。 |
| 若い頃 | トゥースやニシャープールで学問を修める | 数学、天文学、哲学、医学など幅広い分野を学ぶ。 |
| 1213年頃 | イスマーイール派の庇護下で研究を始める | 山岳地帯の城砦で研究活動を行う。激動の時代において、イスマーイール派が直接支配する城砦は唯一平和な場所であった。 |
| 1219年 | モンゴル軍によるホラズム・シャー朝への侵攻が始まる | チンギス・ハーンによる中央アジア征服。 |
| 1256年 | フレグ・ハーンに仕えることになる | モンゴル軍による城砦陥落後、科学顧問として迎えられる。 |
| 1259年 | マラーガ天文台の建設を開始 | フレグの支援のもと、当時世界最高峰の天文台を建設。 |
| 1259年頃 | 『四辺形の書』を執筆 | 三角法を体系化した画期的な著作。 原題は『切断図形の書』。 |
| 1260年代 | マラーガ天文台で天文観測と研究を行う | 多くの学者を集め、図書館には40万冊の蔵書があったとされる。 |
| 1274年 | バグダードで死去(73歳) | イスラーム科学の黄金時代を代表する学者として生涯を閉じる。 |
トゥースィーの活動場所
ナスィールッディーン・トゥースィーは、現在のイラン北東部に位置するペルシャの都市トゥースで生まれました。
若い頃、彼は故郷のトゥースや、当時ホラーサーン地方の学問の中心地であったニーシャープールで、数学、天文学、哲学、医学など幅広い分野の学問を修めました。
1213年頃からは、イスマーイール派の庇護のもと、山岳地帯の城砦を転々としながらで研究活動を始めます。
モンゴル軍の侵攻が続く激動の時代において、その城砦は平和な研究場所でした。
しかし、その城砦がモンゴル軍によって陥落すると、トゥースィーはチンギス・ハーンの孫であるフレグ・ハーンに科学顧問として迎え入れられます。
フレグの支援を受けたトゥースィーは、1259年からマラーガに当時世界最高峰とされた天文台の建設を始めました。
1274年、トゥースィーはバグダードで73年の生涯を閉じ、イスラーム科学の黄金時代を代表する学者としてその名を歴史に残しました。
トゥースィーの功績:平行線公準への疑問の橋渡し役
ユークリッドの『原論』の5つの公準の中で一際目立つ「平行線公準」。
二つの直線と交わる直線の同じ側の内角の和が二直角($~180^{\circ}~$)より小さいならば、二つの直線を同じ側に伸ばしていけばいつかは交わること。

トゥースィーはこの公準の証明に挑み、その後のヨーロッパ数学にも影響を与えました。

ウマル・ハイヤームから継承した
トゥースィーの研究は、ゼロから始まったわけではありません。
彼は、11世紀の偉大な詩人であり数学者でもあったウマル・ハイヤームの研究を深く理解し、そのアプローチを継承しました。
ハイヤームは、長方形の辺に直角に立てた等しい長さの二辺の上端を結んだ四辺形(サッケリの四辺形)を考え、その上方の角が「鋭角・直角・鈍角」のいずれかになるはずだと考えました。
そして、「鋭角」と「鈍角」の可能性を否定することで、平行線公準を証明しようと試みたのです。
四角形$~ABCD~$において、$~AB=DC~$、$~\angle B=\angle C=90^{\circ}~$のとき、この四角形をサッケリの四辺形という。



トゥースィーもこの手法を受け継ぎ、ハイヤームと同様に、鈍角の仮説からは矛盾を導くことに成功しましたが、鋭角の仮説からはどうしても矛盾を見つけ出すことができませんでした。

ウォリスやサッケリに影響を与えた
結局、トゥースィー自身は平行線公準を証明できませんでした。
しかし、彼の著作『ユークリッド原論の釈明』が17世紀にラテン語に翻訳されてヨーロッパに伝わったことで、事態は大きく動きます。
イギリスの数学者ジョン・ウォリスや、イタリアの数学者ジョヴァンニ・サッケリらが、トゥースィーの著作を通じてこの問題を知り、研究を引き継いだのです。

出典:(After Godfrey Kneller, Public domain, via Wikimedia Commons)
特にサッケリの研究は、トゥースィーの議論と驚くほど似通っており、その影響の大きさがうかがえます。
ウォリスやサッケリもまた証明には失敗しましたが、この一連の挑戦の歴史が、「そもそも平行線公準は証明できない、独立した公理なのではないか?」という発想の転換を促し、19世紀の非ユークリッド幾何学の誕生へと繋がっていったのです。
トゥースィーは、ハイヤームからサッケリへと続く、幾何学の歴史のバトンを見事に繋いだ「橋渡し役」でした。
トゥースィーの功績:三角法の橋渡し役
トゥースィーのもう一つの数学史的功績は、三角法を一つの独立した数学分野として確立したことです。
ここでも彼は、偉大な「橋渡し役」としての役割を果たしています。
アブール・ワファから継承した
10世紀、イスラーム世界にはアブール・ワファという偉大な数学者がいました。
彼もまた三角法を確立した人物と言われており、それまで正弦(サイン)が主役だった三角法に、正接(タンジェント)や正割(セカント)といった新しい関数や単位円を導入し、三角法をより強力なツールへと発展させました。

(出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons)
トゥースィーは、アブール・ワファらが開発したこれらの強力な「部品」を受け継ぎ、それらを一つの体系にまとめ上げるという大事業に取り組んだのです。
トゥースィーが書いた彼の『四辺形の書』は、天文学とは区別されたイスラームの三角法の集大成でした。
正弦定理を証明した
トゥースィーが行った三角法の体系化の最たる例が正弦定理です。
それまで、天文学で必要だった円と弦に関する関係式$~\left( 2R=\displaystyle \frac{a}{\sin{A}} \right) ~$だったのを、現在知られている三角形に関する定理へと進化させました。
任意の$~\triangle ABC~$において、次の式が成り立つ。
\frac{a}{\sin{A}}=\frac{b}{\sin{B}}=\frac{c}{\sin{C}}
トゥースィーは外接円を使わずに、この定理を証明しています。
2つの角$~B~$と$~C~$について、$~\displaystyle \frac{b}{\sin B} = \frac{c}{\sin C}~$が示されれば、それを$~A~$と$~B~$、$~C~$と$~A~$にも適用することで正弦定理は示されます。
2つの角$~B~$と$~C~$のうち、どちらかが直角の場合は自明なため、トゥースィーは$~B~$が鈍角の場合と、$~B~$と$~C~$が共に鋭角の場合に分けて、以下のように証明を行いました。
(1) $~\triangle ABC~$で、$~B~$が鈍角のとき
$~BA~$と$~CA~$を延長し、$~BD = 1~$、$~CE = 1~$となるような$~D, E~$をとる。
$~A, D, E~$から直線$~BC~$上に垂線を下ろし、その足を$~F, G, H~$とする。

斜辺が$~1~$の直角三角形$~DBG~$、$~ECH~$において、
\begin{align*}
&DG = \sin(180° - B) = \sin B \cdots ① \\
&EH = \sin C \cdots ②
\end{align*}が成り立つ。
また、直角と共通角から$~\triangle BAF~$∽$~\triangle BDG~$と$~\triangle CAF~$∽$~\triangle CEH~$が成り立つため、
\begin{align*}
&\frac{BA}{AF} = \frac{BD}{DG} \cdots ③ \\
&\frac{CA}{AF} = \frac{CE}{EH} \cdots ④
\end{align*}である。
$~③÷④~$より、
\frac{BA}{CA} = \frac{BD}{DG} \cdot \frac{EH}{CE}で、わかっている長さや$~①,②~$を代入することで、
\begin{align*}
\frac{c}{b} &= \frac{1}{\sin B} \cdot \frac{\sin C}{1} \\
\frac{c}{\sin C} &= \frac{b}{\sin B}
\end{align*}と求められた式が求められた。
(2) $~\triangle ABC~$の$~B~$と$~C~$がどちらも鋭角のとき
$~BA~$と$~CA~$を延長し、$~BD = 1~$、$~CE = 1~$となるような$~D, E~$をとる。
$~A, D, E~$から直線$~BC~$上に垂線を下ろし、その足を$~F, G, H~$とする。

斜辺が$~1~$の直角三角形$~DBG~$、$~ECH~$において、
\begin{align*}
&DG = \sin B \\
&EH = \sin C
\end{align*}が成り立ち、$~\triangle BAF~$∽$~\triangle BDG~$と$~\triangle CAF~$∽$~\triangle CEH~$も成り立つため、$~B~$が鈍角のときと同様の計算を進めることで、
\frac{c}{\sin C} = \frac{b}{\sin B}が得られる。$~\blacksquare~$
三角形の形状決定を考察した
さらにトゥースィーは、自身が証明した正弦定理を基本ツールとして、三角形の6つの要素(3つの辺と3つの角)のうち、3つが与えられたときに残りの3つを決定するという、いわゆる「三角形の決定」を体系的に整理しました。
2つの角と1つの辺がわかっている場合

- $~C = 180° – A – B~$ が求められる。
- 正弦定理 $~\displaystyle \frac{b}{\sin B} = \frac{a}{\sin A}~$ から、$~a~$が求められる。
- 正弦定理 $~\displaystyle \frac{b}{\sin B} = \frac{c}{\sin C}~$ から、$~c~$が求められる。
1つの角と2つの辺がわかっている場合
わかっている角が2つの辺の間にあるかそうでないかで解法が異なる。
(1) 2つの辺とその間の角がわかっている場合

$~A~$から$~BC~$に垂線$~AH~$をひくと、$~AH = c \sin B~$と表せる。

三平方の定理により、$~BH = \sqrt{AB^2 – AH^2}~$ で求められ、$~CH = a – BH~$ で求められることから、
- 三平方の定理により、$~b = \sqrt{AH^2 + CH^2}~$ が求められる。
- 正弦定理 $~\displaystyle \frac{b}{\sin B} = \frac{a}{\sin A}~$ から、$~A~$が求められる。
- 正弦定理 $~\displaystyle \frac{b}{\sin B} = \frac{c}{\sin C}~$ から、$~C~$が求められる。
(2) 2つの辺とその間にない角がわかっている場合

- 正弦定理 $~\displaystyle \frac{a}{\sin A} = \frac{c}{\sin C}~$ から、$~C~$が求められる。
- $~B = 180° – A – C~$ が求められる。
- 正弦定理 $~\displaystyle \frac{a}{\sin A} = \frac{b}{\sin B}~$ から、$~b~$が求められる。
3つの辺がわかっている場合

$~A~$から$~BC~$に垂線$~AH~$をひくと、次の式から$~BH~$が求められる。(※)
BH = \frac{c^2 + a^2 - b^2}{2a}三平方の定理により、$~AH = \sqrt{c^2 – BH^2}~$ が求められる。

したがって、
- $~\displaystyle \sin B = \frac{AH}{c}~$ から$~B~$が求められる。
- $~\sin C = \displaystyle \frac{AH}{b}~$ から$~C~$が求められる。
- 正弦定理 $~\displaystyle \frac{b}{\sin B} = \frac{a}{\sin A}~$ から、$~A~$が求められる。
※ $~BH~$を求める式は、暗に余弦定理が使われていた。
BH = c \cos B = c \cdot \frac{c^2 + a^2 - b^2}{2ca} = \frac{c^2 + a^2 - b^2}{2a}これにより、三角法は天文学の計算を行うための専門技術から、誰もが使える幾何学の普遍的な学問へと昇華したのです。
レギオモンタヌスなどに影響を与えた
トゥースィーが完成させたこの三角法の体系は、15世紀のドイツの数学者・天文学者であるレギオモンタヌスをはじめとするルネサンス期の数学者たちに大きな影響を与えました。

出典:([1], Public domain, via Wikimedia Commons)
レギオモンタヌスは、ヨーロッパで最初の体系的な三角法の教科書を著しましたが、その内容はトゥースィーの『四辺形の書』に負うところが大きいと言われています。
ここでもまた、トゥースィーはイスラーム世界で成熟した数学の成果を、ルネサンス期のヨーロッパへと繋ぐ重要な役割を果たしたのです。
トゥースィーのエピソード:支配者の下で研究を続けた
トゥースィーの生涯で興味深いのは、異なる思想を持つ支配者の下で、その才能を認めさせ、研究を続けた点です。
彼はもともと、シーア派の一派であるイスマーイール派の庇護の下で、城塞を転々としながら研究をしていました。
しかし、その拠点がモンゴルのフレグ・ハーンによって滅ぼされた後は、そのフレグに仕えることになります。
しかも一部の資料によれば、トゥースィーは得意の占星術でバグダードの攻めどきをフレグに示唆し、1258年のアッバース朝の終焉に不可欠な役割を果たしたと推定されています。

(AIイメージ)
フレグは自然科学に関心を持っていたこともあり、科学顧問および内閣の常任メンバーに任命するほど、トゥースィーのことを高く評価しました。
そして、フレグはトゥースィーにマラーガ天文台の建設という、国家的な巨大プロジェクトを任せています。

(出典:Saudi Aramco World. May/June 2007 edition., Public domain, via Wikimedia Commons)
これは、トゥースィーの卓越した学識だけでなく、激動の時代を生き抜くための柔軟な処世術をも兼ね備えていたことを物語っています。
まとめ
ナスィールッディーン・トゥースィーの功績を振り返ると、彼が単なる一人の天才数学者ではなく、文明と文明を繋ぐ「知の架け橋」であったことがよくわかります。
- 三角法を独立した学問として完成させ、その体系をヨーロッパに伝えた。
- 平行線公準の研究を集大成し、非ユークリッド幾何学の発見へと繋がる道筋をつけた。
- モンゴルの支配者の信頼を得て、マラーガ天文台を拠点にイスラーム科学の遺産を後世に残した
彼の研究がなければ、ヨーロッパのルネサンスや科学革命は、今私たちが知るのとは少し違う形になっていたかもしれません。

まさに世渡り上手!



フランス革命期のジョゼフ・フーリエも同じように、時の権力者につくことによって生き延び、功績を残したよ。
このブログの参考文献
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- 『カッツ 数学の歴史』
- 『メルツバッハ&ボイヤー数学の歴史(Ⅰ・Ⅱ)』
- 『数学の流れ30講(上・中・下)』
- 『数学の歴史物語』
- 『フィボナッチの兎』
- 『高校数学史演習』
- 『数学の世界史』
- 『数学の文化史』
- 『モノグラフ 数学史』
- 『数学史 数学5000年の歩み』
- 『数学物語』
- 『世界数学者事典』
- 『数学者図鑑』
- 『数学を切りひらいた人々(1~5)』
- 『天才なのに変態で愛しい数学者たちについて』
- 『素顔の数学者たち』
- 『数学スキャンダル』
- 『ギリシャ数学史』
- 『古代ギリシャの数理哲学への旅』
- 『ずかん 数字』
- 『πとeの話』
- 『代数学の歴史』
- 『幾何学の偉大なものがたり』
- 『アキレスと亀』
- 『ピタゴラスの定理100の証明法』
- 『ピタゴラスの定理』
- 『フェルマーの最終定理』
- 『哲学的な何か, あと数学とか』
- 『数と記号のふしぎ』
- 『身近な数学の記号たち』
- 『数学用語と記号ものがたり』
- 『納得する数学記号』
- 『図解教養事典 数学』
- 『イラストでサクッと理解 世界を変えた数学史図鑑』(拙著)
- 『教養としての数学史』(拙著)


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