ナスィールッディーン・トゥースィー〜生涯と功績を解説!【数学史10-8】

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 ナスィールッディーン・トゥースィーは、13世紀に活躍した中世イスラーム世界を代表する科学者です。

 彼の功績は数学、天文学、哲学など多岐にわたります。

 特に数学の分野では、三角法を一つの独立した学問として完成させ、後のヨーロッパ数学に絶大な影響を与えました

 また、2000年来の難問であった平行線公準の研究においても、イスラーム世界の知見をヨーロッパに繋ぐ重要な役割を果たしています

 この記事では、ナスィールッディーン・トゥースィーの生涯と功績、そして彼が果たした「橋渡し役」としての重要性について、現役数学教員で、数学史の先生であるFukusukeが詳しく解説します。

 モンゴル帝国が世界を席巻する激動の時代に、科学の灯を守り抜いた偉大な学者の姿を一緒に見ていきましょう。

この記事を書いた人

Fukusuke(ふくすけ)
数学史の先生

  1. 現役の中学・高校数学教員
  2. 著書2冊重刷、ブログ累計200万PV達成
  3. ブログでは、式変形をとにかくていねいに記述
この記事を書いた人

Fukusuke(ふくすけ)
数学史の先生

  • 現役の中学・高校数学教員
  • 著書2冊重刷、ブログ累計200万PV達成
  • ブログでは、式変形をとにかくていねいに記述
  • 作図や文章校正、Texの打ち込みは文系妻が担当

この記事を読んでわかること

トゥースィーの生涯

 ナスィールッディーン・トゥースィー(Naṣīr al-Dīn al-Ṭūsī、1201年〜1274年)は、13世紀のイスラーム世界を代表する数学者・天文学者です。

ナスィールッディーン・トゥースィー
ナスィールッディーン・トゥースィー
出典:(scan of stamp 30 May 2006, Public domain, via Wikimedia Commons)

 現在のイラン北東部のトゥースで生まれ、若くして数学、天文学、哲学、医学などあらゆる学問を修めました。

 モンゴル帝国の侵攻という激動の時代に、フレグ・ハーンの庇護を受けてマラーガ天文台を建設し、そこで数々の画期的な研究を行ったことで名を残しています。

トゥースィーの年譜

ナスィールッディーン・トゥースィーの年譜
年代出来事補足
1201年ペルシャのトゥースで生まれる現在のイラン北東部。
若い頃トゥースやニシャープールで学問を修める数学、天文学、哲学、医学など幅広い分野を学ぶ。
1213年頃イスマーイール派の庇護下で研究を始める山岳地帯の城砦で研究活動を行う。激動の時代において、イスマーイール派が直接支配する城砦は唯一平和な場所であった。
1219年モンゴル軍によるホラズム・シャー朝への侵攻が始まるチンギス・ハーンによる中央アジア征服。
1256年フレグ・ハーンに仕えることになるモンゴル軍による城砦陥落後、科学顧問として迎えられる。
1259年マラーガ天文台の建設を開始フレグの支援のもと、当時世界最高峰の天文台を建設。
1259年頃『四辺形の書』を執筆三角法を体系化した画期的な著作。
原題は『切断図形の書』。
1260年代マラーガ天文台で天文観測と研究を行う多くの学者を集め、図書館には40万冊の蔵書があったとされる。
1274年バグダードで死去(73歳)イスラーム科学の黄金時代を代表する学者として生涯を閉じる。

トゥースィーの活動場所

 ナスィールッディーン・トゥースィーは、現在のイラン北東部に位置するペルシャの都市トゥースで生まれました。

 若い頃、彼は故郷のトゥースや、当時ホラーサーン地方の学問の中心地であったニーシャープールで、数学、天文学、哲学、医学など幅広い分野の学問を修めました

 1213年頃からは、イスマーイール派の庇護のもと、山岳地帯の城砦を転々としながらで研究活動を始めます。
 モンゴル軍の侵攻が続く激動の時代において、その城砦は平和な研究場所でした。

 しかし、その城砦がモンゴル軍によって陥落すると、トゥースィーはチンギス・ハーンの孫であるフレグ・ハーンに科学顧問として迎え入れられます

 フレグの支援を受けたトゥースィーは、1259年からマラーガに当時世界最高峰とされた天文台の建設を始めました。

 1274年、トゥースィーはバグダードで73年の生涯を閉じ、イスラーム科学の黄金時代を代表する学者としてその名を歴史に残しました。

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