ルカ・パチョーリは、ルネサンス期のイタリアを代表する数学者です。
彼は、当時知られていた数学の知識を集大成した主著『スンマ』を出版し、その中で複式簿記を初めて体系的に記述したことから「複式簿記の父」として広く知られています。
また、芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチの親友として、黄金比の研究を深めたことでも有名です。
この記事では、会計の世界だけでなく、数学の歴史にも大きな足跡を残したルカ・パチョーリの生涯と功績を、現役数学教員で数学史の先生Fukusukeがわかりやすく解説します!
ルカ・パチョーリの生涯
ルカ・パチョーリ(Luca Pacioli , 1445年〜1517年)は、修道士・算法教師・著者として、イタリア各地を旅しながらその知性を発揮しました。

(出典:Attributed to Jacopo de’ Barbari, Public domain, via Wikimedia Commons)
彼の生涯は、学問の中心地であった都市国家間の移動と、ルネサンスを代表する知識人たちとの交流によって彩られています。
ルカ・パチョーリの年譜
| 年代 | 出来事 | 補足 |
|---|---|---|
| 1445年 | イタリアのサンセポルクロで生まれる | |
| 若い頃 | 画家ピエロ・デラ・フランチェスカの工房で教育を受ける | 確たる証拠はないものの、フランチェスカの著作への理解が広範で、パチョーリの著作にもその影響が現れている |
| 1464年頃 | ヴェネツィアに移り、裕福な商人の3人の息子の家庭教師となる | この時期に商人としての実務と数学の研究に励み、1470年には最初の算術書を執筆した |
| 1470年頃 | ローマに移り、フランシスコ会の修道士となる | 人文主義者アルベルティの家で過ごし、神学を学んだ |
| 1477年〜1480年 | ペルージャ大学で数学を教える | この時期、講義のために2冊目の算術書を執筆した |
| 1480年〜1489年 | ザーラやナポリ、ローマなどで数学を教える | この時期、講義のために3冊目の算術書を執筆した |
| 1489年〜1494年 | 故郷サンセポルクロで『スンマ(算術・幾何・比及び比例大全)』を執筆する | 『スンマ』のための教材集めは1474年頃から行われていた |
| 1494年 | ヴェネツィアで主著『スンマ』を出版する | 『スンマ』は約20年間の歳月をかけて執筆した、当時最大級の数学書となった |
| 1496年頃 | ミラノの宮廷で数学を教える | レオナルド・ダ・ヴィンチと出会い、親交を深めた |
| 1499年 | フランス軍の侵攻により、レオナルドと共にミラノを脱出する | マントヴァ、ヴェネツィアを経てフィレンツェにて、同じ家で生活を共にした |
| 1500年頃 | ピサ大学やボローニャ大学で教壇に立つ | ボローニャ大学で数学者シピオーネ・デル・フェッロと共同研究をした |
| 1509年 | ヴェネツィアで『神聖比例論』を出版する | 挿絵はレオナルド・ダ・ヴィンチが担当した |
| 1517年 | 故郷サンセポルクロで死去 |
ルカ・パチョーリの活動場所
パチョーリはイタリアの様々な都市に赴き、算法教師として数学の教授活動を行いました。
- サンセポルクロ:生まれ故郷。ピエロ・デッラ・フランチェスカの工房があった。晩年に戻り、没した。
- ヴェネツィア:商人の家庭教師として数学を深め、後に『スンマ』と『神聖比例論』を出版した。ミラノ脱出時にも一時的に滞在した。
- ローマ:アルベルティとの出会いの地。フランシスコ会の修道士となり、教皇庁の有力者とも交流した。ローマ大学で数学を教えたこともある。
- ペルージャ:ペルージャ大学で数学を教えながら、算術書を書いた。
- ザーラ:数学を教えながら、算術書を書いた。
- ナポリ:ナポリ大学で数学を教えた。
- ミラノ:宮廷で数学を教える中でレオナルド・ダ・ヴィンチと出会った。
- マントヴァ:ミラノを脱出したときの一時避難場所。
- フィレンツェ:ミラノ脱出時、ダ・ヴィンチと共同生活を行った場所。
- ピサ:ピサ大学で数学を教えた。
- ボローニャ:ボローニャ大学で数学を教える中で、シピオーネ・デル・フェッロと共同研究をした。
パチョーリの功績①:『スンマ』で複式簿記を体系化
パチョーリの最も広く知られた功績は、主著『算術、幾何、比および比例大全』(通称:スンマ)の出版です。
この著作は、単なる数学書にとどまらず、商取引の実務、特に複式簿記の理論を世に広めるという画期的な役割を果たしました。
当時の数学知識を集めた実用書『スンマ』
1494年にヴェネツィアで出版された『スンマ』は、当時の数学知識を網羅した百科事典のような書物でした。
ページ数は約600ページにもわたり、以下の項目について言及されているため、網羅性の高さが窺えます。
- 理論・実務算術の概説
- 代数の基礎
- イタリア諸州の通貨・度量衡表
- 複式簿記の解説
- ユークリッド幾何学
パチョーリは『スンマ』を執筆するにあたり、ユークリッドやフィボナッチをはじめとする多数の人々の功績に依拠していることを認めており、独創性はほとんどありません。
また、ラテン語ではなくトスカナ地方のイタリア語方言で書かれています。

(出典:Luca Pacioli, Public domain, via Wikimedia Commons)
それにも関わらず、活版印刷技術が誕生したばかりの1400年代、およそ10%しか印刷されなかった科学的書物の1つとして出版されたのには理由がありました。
それは、実用的な数学知識が1冊の本にまとめられていることと、ヴェネツィアの商人たちが読めるイタリア語で書かれていたこと。
本の読者を大学の教授や聖職者ではなく、日夜、帳簿をつけている商人や職人、そしてその子弟たちとしたことで、ヴェネツィアの人たちの需要に刺さったのです。
ふくすけ10年前にシュケが執筆した『三部作』は独創性が高かったものの、『スンマ』の影響力の大きさにより、ほとんど目立たなくなってしまったんだ。
世界で初めて出版された複式簿記の理論
『スンマ』が歴史的に特に重要視される理由は、その一部として「簿記論」が含まれていたことです。
ヴェネツィアの商人たちの間で実践されていた複式簿記の技法が、世界で初めて理論的かつ体系的に解説されました。
パチョーリは、ヴェネツィアで商人の家庭教師を務めた経験から、商業算術の重要性をよく知っていました。
この実務経験が、簿記論を数学書に組み込むという着想につながったと考えられています。
この理論は、その後の会計学の基礎となり、現代に至るまで世界中の企業会計の根幹となっています。
パチョーリが「複式簿記の父」と呼ばれる所以はここにあります。
現代代数学につながる記号の使用も
『スンマ』は、代数学の分野においても重要な一歩を記しています。
パチョーリは、方程式を解く際に完全な文章で記述するのではなく、以下のような省略記号を用いました。
| 記号 | 元の言葉 | 意味 |
|---|---|---|
| co. | cosa(もの) | 未知数(現代の $x$ に相当) |
| ce. | censo(財産) | 未知数の平方(現代の $x^2$ に相当) |
| $~\bar{p}$. | più(より多く) | 加法(現代の $+$ に相当) |
| $~\bar{m}$. | meno(より少なく) | 減法(現代の $-$ に相当) |
| ae | aequalis(等しい) | 等号(現代の $=$ に相当) |
| ℞ | radix(根) | 根号(現代の $\sqrt{~~}$ に相当) |
| v. | videlicet(以下の通り)? | 以下すべて(現代のかっこ$~(~~)~$の特殊な使い方に相当) |
実際に、パチョーリは次のように数式を省略記号により表現しています。
(1) 現在における$~2x + 6~$を、次のように表した。
2.co.\bar{p}.6$~2.co.~$が$~2x~$、$~\bar{p}.~$が$~+~$を表している。
(2) 現在における$~x – \sqrt{x^2 – 36}~$を、次のように表した。
1.co.\bar{m}.℞\text{v}.1.ce. \bar{m}.36$~1.co.~$が$~x~(=1x)~$、$~\bar{m}.~$が$~-~$、$~\text{℞v}.~$が$~\sqrt{~~}~$、$~1.ce.~$が$~x^2~(=1x^2)~$を表している。
これらの記号は現代の記号とは大きく異なりますが、数式をより簡潔に・抽象的に表現しようとする試みであり、記号代数学へと至る道筋の重要な段階と評価されています。



「℞」は現在、国際的に処方箋記号として使われています。
16世紀の処方箋に「受け取れ」という指示を意味する後期ラテン語 “recipe” の略語として書かれるようになったとのこと。(wikipediaより)
3次方程式に解の公式がないと主張した
フワーリズミーなどが行ったように、『スンマ』では1次や2次の方程式が6つのタイプに分類されたうえで、それぞれに解法が与えられています。
それらに加え、パチョーリは4次方程式を以下の8つに分け、独自の考察を行いました。
- $~ax^4=e~$
- $~ax^4=dx~$($~ax^3=d~$)
- $~ax^4=cx^2~$($~ax^2=c~$)
- $~ax^4+cx^2=dx~$($~ax^3+cx=d~$)
- $~ax^4+dx=cx^2~$($~ax^3+d=cx~$)
- $~ax^4+e=cx^2~$
- $~ax^4+cx^2=e~$
- $~ax^4=e+cx^2~$
この中で、②と④と⑤の方程式は実質3次方程式になっていますが、④と⑤には解を確実に求めるための方法が無いことについて、パチョーリは以下のように言及しています。
それら(の方程式)が、数とモノと立方、または、数と財と立方、ないしは、数と立方と財の財からなっているときには、これまでのところ何人も一般的な規則を作り上げることはできていない。なぜなら、それらは比例していないからである。
Victor J.Katz『代数学の歴史』より引用
出版されて広く読まれた『スンマ』の中での言及であったがために、3次方程式の解の公式は存在しないものという見解が知れ渡りました。
しかし、パチョーリのかつての研究仲間のシピオーネ・デル・フェッロが、16世紀初頭に3次方程式の解の公式を与えることになるのです。
パチョーリの功績②:『神聖比例論』で黄金比を探求
パチョーリのもう一つの主著が、1509年に出版された『神聖比例論』です。
この本は、数学的な比率が持つ美しさと神秘性を探求したもので、ルネサンスの芸術と科学の融合を象徴する著作といえます。
神が宿るとされた「神の比」
パチョーリは、現在「黄金比」として知られる比率(約$~1:1.618\cdots~$)を「神の比」と名付け、その比率が持つ特別な性質を論じました。
パチョーリは『神聖比例論』にて、黄金比が「神の比」である理由を以下のように挙げています。
- 数理的に割り切ることができない(無理数である)
- 言葉では限定しがたく、それ自身として存在する
- 神のごとくユニークであり、神意によって天から授けられたものである
また、黄金比は正多角形や正多面体にも深く関わっており、建築や芸術作品に調和と美しさをもたらすことが、紀元前のピタゴラスの時代から信じられていました。


レオナルド・ダ・ヴィンチによる挿絵
『神聖比例論』が今日まで多くの人々を魅了する理由の一つに、レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた美しい多面体の挿絵があります。


(出典:Leonardo da Vinci, Public domain, via Wikimedia Commons)
ダ・ヴィンチとパチョーリは厚い友情で結ばれており(後述)、多面体の挿絵はミラノ滞在中(1496年頃〜1499年)に描いたものとされています。
ダ・ヴィンチによる美しい挿絵は、数学的な概念を視覚的に理解する助けとなるだけでなく、それ自体が芸術作品としての価値を持っているのです。



すべての挿絵が黄金比に関連しているわけではないので注意。
斜方切頂二十面体と黄金比には、主だった関係がありません。
パチョーリのエピソード:著名人との交流
パチョーリの生涯は、同時代の一流の知識人たちとの交流によって豊かに彩られていました。
レオナルド・ダ・ヴィンチとの友情
パチョーリとレオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci , 1452年4月15日〜 1519年5月2日)は、1496年頃にミラノで出会い、すぐに親しい友人となりました。


(出典:Leonardo da Vinci, Public domain, via Wikimedia Commons)
二人の交流を時系列でまとめると以下の通りです。
- 1496年頃: ミラノで出会い、数学と芸術について深く議論し、互いに大きな影響を与え合う
- 1497年頃: 『神聖比例論』の共同制作を開始。レオナルドが挿絵を担当
- 1499年12月: フランス軍のミラノ侵攻を受け、二人で共に脱出
- 1500年〜: フィレンツェで同じ家を共有しながら研究を続ける
パチョーリの『神聖比例論』には、前述の通りダ・ヴィンチの挿絵が使われ、芸術作品としての価値も生み出しました。
逆に数学を愛好していたダ・ヴィンチにとって、パチョーリは最高の数学教師でした。
ダ・ヴィンチの代表的な作品「モナ・リザ」や「最後の晩餐」、「ウィトルウィウス的人体図」などに黄金比や射影幾何学の知識が使われています。
ダ・ヴィンチは三平方の定理の証明を、合同な六角形に着目するという幾何学的な方法で行っています。


シピオーネ・デル・フェッロとの共同研究
パチョーリは1501年から1502年にかけてボローニャ大学で教えていた際に、同大学の数学者シピオーネ・デル・フェッロ(Scipione del Ferro , 1465年2月6日〜1526年11月5日)と共同研究を行いました。
デル・フェッロは三次方程式の特殊形について、解の公式を初めて与えた数学者として知られています。
三次方程式$~x^3+px+q=0~$の解※は次のように与えられる。
\begin{align*}
x&=\sqrt[3]{-\frac{q}{2}+\sqrt{\left( \frac{q}{2} \right)^2+\left( \frac{p}{3} \right)^3}} +\sqrt[3]{-\frac{q}{2}-\sqrt{\left( \frac{q}{2} \right)^2+\left( \frac{p}{3} \right)^3}}\\
\end{align*}※実際は方程式の3つの解のうちの1つが上記の公式で求められる。
パチョーリとデル・フェッロが行った共同研究の内容までは定かではありませんが、「三次方程式の解の公式は存在しない」という主張を『スンマ』で行ったパチョーリと、その解の公式を発見したデル・フェッロが同僚だったことは運命を感じさせられます。
まとめ
同国イタリアで約300年前に影響を与えたフィボナッチ同様、ルカ・パチョーリもその実用的な著作から、のちのイタリア、さらにはヨーロッパ全体に大きな影響を与えました。
- 1494年に出版した『スンマ』は、当時最大級の数学書であった
- 複式簿記を世界で初めて体系的に解説し、「複式簿記の父」と呼ばれている
- $~co~$・$\bar{p}$・$\bar{m}~$などの代数記号を使用し、記号代数学の発展に貢献した
- 「神の比(黄金比)」を探求した『神聖比例論』を出版し、挿絵はレオナルド・ダ・ヴィンチが担当した
- 独創性は少ないが、印刷技術を活用して数学知識を広く社会に普及させた功績は大きい



著書に独創性はなくても、当時の世の中の需要を鋭く見抜いた点で、パチョーリは偉大だったんだね。



コメント