西ローマ帝国の滅亡後、「暗黒時代」と呼ばれる長い停滞期に入った西ヨーロッパ。
しかし、その闇の中に、一筋の光が差し込んだ時代がありました。
それが、8世紀末から9世紀にかけてフランク王国で花開いた「カロリング・ルネサンス」です。
カール大帝という偉大な君主の下で、古代の学問、そして数学は一時的ながらも復活を遂げました。
この記事では、西ヨーロッパにおける数学の「最初の夜明け」ともいえるカロリング・ルネサンスから、10世紀末にイスラーム世界の進んだ知識をヨーロッパにもたらしたローマ教皇ジェルベールまで、8世紀から10世紀にかけての数学の歴史を、数学史の先生Fukusukeが解説します。
また、同時期の東ローマ(ビザンツ)帝国で活躍した天才数学者レオンの活動にも光を当て、東西の対照的な数学の歩みを明らかにします。
8〜10世紀のヨーロッパの数学史年表
この時代の東西ヨーロッパの数学史を、年表で比較してみましょう。
| 年 | 西ヨーロッパ | 東ヨーロッパ |
|---|---|---|
| 735年頃 | アルクィン誕生 | |
| 742年 | カール大帝誕生 | |
| 790年頃 | 数学者レオン誕生 | |
| 800年 | カール大帝が神聖ローマ皇帝として戴冠 | |
| 804年 | アルクィン死去 | |
| 814年 | カール大帝死去 | |
| 855年頃 | レオンがマグナウラ学院の長に任命される | |
| 867年 | マケドニア朝開始 | |
| 869年以降 | 数学者レオン死去 | |
| 945年頃 | ジェルベール誕生 | |
| 999年 | ジェルベールがローマ教皇シルウェステル2世に即位 | |
| 1003年 | ジェルベール(教皇シルウェステル2世)死去 |
8~9世紀のカロリング・ルネサンス
カール大帝が数学を必要とした
西ローマ帝国崩壊後の混乱期を経て、西ヨーロッパの広大な領域を統一したフランク王国のカール大帝(Karl , 742〜814年 , シャルルマーニュとも)は、帝国の統治を安定させるために教育の復興を重要視しました。

(出典:Albrecht Dürer, Public domain, via Wikimedia Commons)
彼が数学を必要とした背景には、非常に現実的な問題がありました。
それは、キリスト教世界における最重要の祝祭である復活祭(イースター)の日付計算です。
復活祭は「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」に行う。
このため、復活祭の日付は毎年変動し、最も早い日は3月22日、最も遅い日は4月25日となる。
ちなみに、2021年から2030年における復活祭の日は以下の通り。
| 西暦 | 復活祭の日 | 西暦 | 復活祭の日 | |
| 2021年 | 4月4日 | 2026年 | 4月5日 | |
| 2022年 | 4月17日 | 2027年 | 3月28日 | |
| 2023年 | 4月9日 | 2028年 | 4月16日 | |
| 2024年 | 3月31日 | 2029年 | 4月1日 | |
| 2025年 | 4月20日 | 2030年 | 4月21日 |

当時、復活祭の日付を決定するためには、ローマの太陰暦を使うか、ユダヤの太陰暦を使うかで論争が起きていました。
この計算方法を統一し、帝国全土で同じ日に祝祭を行うためには、春分の日や満月の日が計算できるレベルの天文学の知識が必要不可欠であり、そのためにはある程度の数学的知識が求められたのです。
カール大帝は、聖職者たちがこれらの計算を正しく行えるよう、教会や修道院の学校で数学教育を施すべきだと宣言しました。
教育顧問アルクィンの召集
帝国の教育を活性化させるという目的を果たすため、カール大帝はイングランドのヨークから高名な学者であったアルクィン(Alcuin , 735頃〜804年)を教育顧問として宮廷に招聘しました。

(出典:Fulda, Public domain, via Wikimedia Commons)
アルクィンは、当時ヨーロッパの学問の中心地であったアイルランドの学問的伝統を受け継ぐ人物で、カール大帝の宮廷で教育改革の計画を主導しました。
この一連の改革は、古代ローマの文化を復興させようとする動きであったことから、後に「カロリング・ルネサンス」と呼ばれます。
この時代、多くの修道院で古代ギリシャやローマの文献が書き写され、知識の保存と継承に大きな役割を果たしました。
理論的な深さを欠いた数学
しかし、アルクィンの数学は、古代ギリシャのような高度な理論体系を持つものではありませんでした。
アルクィン自身は独創的な数学者ではなく、彼の知識はボエティウスやイシドールスと同様に初歩的な算術や幾何学に留まっていたのです。
アルクィンの著作とされる『青年たちを鍛えるための問題集』には、53の算術問題が収められていますが、その多くは特定の数学理論に基づくものではなく、工夫次第で解けるパズルのような問題でした。
(1) ツバメに誘われて1リーグ離れた昼食に向かうカタツムリは、毎日1インチずつしか這えない。何年何日かかるか?(1リーグ=1500歩、1歩=5フィート、1フィート=12インチ、1年=365日とする。)
(2) ある男が通りで男性のグループを見かけて言った。
「もし君らの数が今の2倍になり、その半分のさらに半分だけが加わり、その半分も加わったら、私を含めてちょうど100人になるだろう。」そのグループの人数は何人か?
(3) ある男は、オオカミ、ヤギ、キャベツの箱を川の向こう岸に渡らせたい。しかし、彼が見つけた小舟は一度に2つだけしか 運べなかった。男はどうやって皆を無事に渡らせたか?
ただし、男はオオカミとヤギを一緒に置いておくことはできず、男がいないときにヤギとキャベツを一緒に置くこともできない。
※問題例はhttps://mathshistory.st-andrews.ac.uk/HistTopics/Alcuin_book/ を和訳
(1) $~1500\times 5 \times 12 =90000~$(インチ)
$~90000 \div 354=246 \cdots 210=$より、246年210日かかる。
(2) グループの人数を $~x~$とする。
2x+\frac{x}{2}+\frac{x}{4}+1=100 エジプトの仮置法を使う。
方程式$~\displaystyle 2x+\frac{x}{2}+\frac{x}{4}=99~$において、$~x=4~$と仮定すると、左辺は$~11~$となる。
右辺の$~99~$に合わせるためには$~9~$倍する必要があるため、$~x=36~$が求められる。
(3) 下のように渡らせればよい。

また、アルクィンの説明には、以下のような新ピタゴラス派の神秘主義的な影響が垣間見えました。
アルクィン6は完全数だから、神は6日間で世界を創造した
カロリング・ルネサンスは、古代の学問への関心を呼び覚まし、教育の基盤を再構築した点で画期的でしたが、そこで教えられた数学は、あくまで暦の計算や基本的な行政に必要な実用的なレベルに留まり、理論的な探求へと進むことはありませんでした。
9世紀のビザンツ帝国の数学者レオン
マケドニア朝ルネサンスで活躍した
西ヨーロッパが再び停滞していた9世紀、東ローマ(ビザンツ)帝国では全く異なる状況が生まれていました。
マケドニア朝(867〜1056年)の下で古代ギリシャ文化が復興する「マケドニア朝ルネサンス」が起こり、その中心人物となったのが、数学者レオン(Leo , 790年頃〜869年以降)です。


テッサリア出身のレオンは、首都コンスタンティノープルでは満足な高等教育を受けられず、アンドロス島の修道院でユークリッドやピタゴラスなどの古代の写本を研究し、数学を独学したと言われています。
そして、学んだ知識を活かして、皇帝の玉座を天井付近まで上昇させる「ソロモンの玉座」のような自動機械を発明しました。


彼の学識はイスラーム世界にまで知れ渡り、バグダードのカリフ、アル・マムーン(フワーリズミーが仕えた指導者)が莫大な富と引き換えに彼を招聘しようとしたという逸話も残っています。
この国際的な名声を知ったビザンツ帝国の皇帝テオフィロスは、レオンを首都コンスタンティノープルに呼び戻し、マグナウラ宮殿に設置された学院の長に任命しました。
レオンはマケドニア朝が始まってから自身が亡くなるまでのたった2年間に、マケドニア朝初期の文化的・科学的発展の基盤を築き、多くの知識人に刺激を与えたのです。
アルキメデス写本の保存活動をした
数学史的なレオンの最大の功績は、古代ギリシャの偉大な数学者たちの著作を収集・研究し、その知識を次世代に伝えた点にあります。
彼の蔵書には、アルキメデス、ユークリッド、ペルガのアポロニウスといった数学者たちの著作が含まれていました。
特に、現存する最も重要なアルキメデス写本の一つである『アルキメデス・パリンプセスト』は、10世紀のビザンツ帝国で、レオンが主導した数学研究の復興の中で作成が依頼されたと考えられています。


(出典:The Walters Museum, CC BY 3.0, via Wikimedia Commons)
レオンの死後も、マケドニア朝ルネサンスは上流階級を中心に続きましたが、学問はあくまでキリスト教神学の枠内でしか行われなかったため、数学が大きな発展を遂げることはありませんでした。
10世紀末のローマ教皇ジェルベール
イスラームの数学がヨーロッパへ
カロリング・ルネサンスが終焉し、再び停滞していた西ヨーロッパに、新たな数学の光をもたらしたのが、10世紀末に活躍したオーリヤックのジェルベール(Gerbert d’Aurillac , 945頃〜1003年)です。
彼は後に、ローマ教皇シルウェステル2世(Silvester II , 在位999〜1003年)となります。


(出典:Artaud de Montor (1772–1849), Public domain, via Wikimedia Commons)
フランスに生まれたジェルベールは、若い頃に当時イスラーム文化の先進地であったスペインに留学し、そこでアラビア科学を学びました。
彼はキリスト教徒として初めて、イスラーム世界の人々から直接数学を学んだ人物の一人と考えられています。
彼の最大の功績は、ヨーロッパにインド・アラビア数字と、それを用いた計算方法を紹介したことです。
しかし、当時ヨーロッパで広く使われていたのはローマ数字であり、教会や行政で強く根付いていたため、アラビア数字が浸透することはありませんでした。
数学的文献が少なすぎて停滞
ジェルベールは教育者としても活躍し、ボエティウスの著作を教科書として使いつつも、そこにイスラーム世界から得た新しい知識を取り入れようとしました。
しかし、ジェルベールのこちらの試みも、ヨーロッパ全体に広まることはありませんでした。
10世紀のヨーロッパには数学的な文献があまりにも少なかったこと、彼の先進的な知識を理解し受け入れる土壌がまだ整っていなかったことが、その原因として挙げられます。
まとめ
8世紀から10世紀にかけてのヨーロッパ数学は、決して完全な「暗黒」ではありませんでした。
- 8世紀、カール大帝による「カロリング・ルネサンス」で実用的な数学が学ばれた。
- ジェルベールがイスラーム世界のインド・アラビア数字と算盤をヨーロッパに紹介した
- レオンが古代ギリシャの数学を再び研究して保存した



アルクィンの問題集、レベルが低いね…。



『青年たちを鍛えるための問題集』は教科書として扱われたため、学習者のレベルに合わせていたんだよ。




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