後世の伝承の中で「三平方の定理と結びつけて語られてきた」古代ギリシャの思想家・ピタゴラス。
- 三平方の定理を証明した人物として語られるが、現在ではピタゴラス本人の業績と断定するより、ピタゴラス学派に結びつく伝承として慎重に扱う必要がある。
- 「万物は数なり」という思想と結びつけられ、音楽や天文学を数学的に捉えた学派の象徴的人物として語られてきた。
などで有名であり、「ピタゴラス数」や「ピタゴラス音階」といった彼の名を冠する言葉もいろいろと存在しています。
ただし、ピタゴラス本人の著作は残っておらず、その生涯や業績の多くは後世の文献やピタゴラス学派に関する伝承を通して伝わったものです。
そのため、本記事では「ピタゴラスが実際に行った確定的事実」としてではなく、「ピタゴラスまたはピタゴラス学派に結びつけて語られてきた内容」として慎重に紹介します。
この記事では、ピタゴラスの数学の功績だけでなく、人生年表や活動場所、有名なエピソードを解説。
実は、ピタゴラスは後世の語りの中で、数学と宗教的共同体を結びつけた教祖的存在としても描かれてきました。

ピタゴラスの生涯
ピタゴラス(Pythagoras , B.C.569頃~B.C.500頃)は、古代ギリシャの思想家・数学者として語られる人物であり、タレスに続く初期ギリシャ数学の象徴的人物として紹介されることがあります。

(出典:The original uploader was Galilea at German Wikipedia., Public domain, via Wikimedia Commons)
ピタゴラスの年譜
タレスやピタゴラスが生きていた時代の歴史は、紀元前4世紀頃まで口頭で後世へと伝わった部分が多く、細かな情報までは確定しにくい状況です。
そのため、ピタゴラスの一生を表した年表は、確定した履歴というより、後世の伝承をもとにした大まかな整理として読む必要があります。
イオニア地方のサモス島で生まれる
父はムネサルコス、母はピュタイスという名で、商人の家庭に生まれ、2人の兄がいたと伝えられる。
エジプトやバビロニアを旅したと伝えられる
タレスの助言により留学した、特にバビロニアから様々なことを学んだ、とする伝承がある。
サモス島で講義をして暮らす
最初は全く学生が集まらなかった。
クロトンに引っ越し、教団を創設する
のちに「ピタゴラス教団」と呼ばれる共同体を作り、厳しい戒律の下で共同生活を送ったとされる。
暴徒に襲われた、あるいは別の地で亡くなったと伝えられる
教団の建物内で焼死した、豆畑の前で殺された、メタポンティオンという町まで逃げてから寿命で亡くなった等、いろいろな説が存在し、死の経緯も伝承の域を出ない。
ピタゴラスの活動場所
ピタゴラスは幼い頃から算数と音楽の才能を見せたと伝えられ、サモス島の南東約50kmのミレトスに住むタレスから教えを受けたという話も残っています。
後世の伝承では、タレスの助言を受けたピタゴラスが、若い頃にエジプトやバビロニアへ留学したとされています。(ちなみに、タレスにも若い頃にエジプトとバビロニアを旅したという伝承があります)
留学を終えて故郷のサモス島に戻り、講義をして暮らしていたものの、大きな成功にはつながらなかったと語られています。
そこで、故郷を離れる決心をし、イタリアのシシリー(シチリア島)やターレントゥム(ターラント)を転々とし、最終的にはクロトンに落ち着いたと伝えられています。
クロトネでピタゴラス教団と呼ばれる共同体を作り、数の研究を続けたとされています。ただし、教団の影響力を恐れて暴徒化した市民に焼き殺されたという話は、後世に伝わる複数の死の伝承の一つです。
ピタゴラスの死については様々な説があり、暴徒に襲われた際にメタポンティオンまで逃げ、そこで死亡したとする説もあります。いずれも、史実として一つに確定するのは難しいと考えられます。
ピタゴラスの数学的功績
ピタゴラスと言えば、まず思い浮かぶのは「ピタゴラスの定理」でしょう。
ただし、ピタゴラス本人の著作は残っておらず、どの業績が本人によるものか、どの業績がピタゴラス学派全体の成果なのかは区別しにくい点に注意が必要です。ここでは、ピタゴラスやピタゴラス学派に結びつけられてきた数学的功績として紹介します。
「万物は数なり」と結びつけられる
ピタゴラスが創設したとされるピタゴラス教団の教義は「万物は数なり」だったと伝えられています。
この伝承では、自然は数学を通じて理解できるという考えのもと、音楽や天文学に数学をあてはめたとされています。

例として、以下のような功績がピタゴラス学派に結びつけて語られています。
- 人間にとって聞きやすい音が出るような弦の長さの比を調べ、音階と数比を結びつけたとされる。
- 各惑星までの距離の比や、星の軌跡が描く図形を数学的に考えたと伝えられる。
こうした研究や思想を背景に、「数が万物を支配している」=「万物は数なり」という考え方が教団内に定着したと語られています。
特に自然数への崇拝が強く、どんな数でも自然数の比で表せるという考えを重視したとされます。後世には、この考えが通約不能量をめぐる有名な殺害伝説と結びつけて語られるようになりました。(後述)
数の分類をした
万物を支配する数について、ピタゴラス教団では細かく研究し、数を分類することに力を入れたとされています。
例えば、以下のような分類がピタゴラス学派に結びつけて紹介されます。
| 数の分類 | 説明 | 数の例 |
| 三角数 | 正三角形の形となるように石を並べるとき、必要な石の数を表す。 | $~1~,~3~,~6~,~10~,~\cdots$ |
| 偶偶数 | 素因数が$~2~$のみの数。 | $~2~,~4~,~8~,~16~,~\cdots$ |
| 完全数 | 自身以外の約数の和が、自身と等しくなる数。 | $~6~,~28~,~496~,~8128~,~\cdots$※1 |
| 友愛数 | それぞれの自身以外の約数の和が、相手と等しくなる数の組み合わせ。 | $~220~$と$~284~$※2 |
※1:ピタゴラス学派に結びつけて語られる完全数は$~8128~$までの4つ。2021年現在、完全数は51個見つかっている。
※2:ピタゴラス学派に結びつけて語られる友愛数は$~220~$と$~284~$の1組。
他にも、$~2~$は女性、$~3~$は男性、$~5(=2+3)~$は結婚といった意味を数に持たせ、万物の性質やふるまいを数が決めるという考え方を持っていたと伝えられます。
「ピタゴラスの定理」を証明したと伝えられる
彼の名が付いた「ピタゴラスの定理」は、別名「三平方の定理」とも言い、現在でも知名度の高い定理です。
直角をはさむ辺の長さが$~a~,~b~$、斜辺が$~c~$である直角三角形において、
a^2+b^2=c^2
が成り立つ。

この定理自体は、ピタゴラスが生まれる約1300年前からバビロニアで知られていました。

伝承では、ピタゴラスはバビロニアに留学した際にこの定理を学んだとされています。
後世の数学史叙述では、留学から帰ってきたピタゴラスが、なぜこの定理が成り立つのか、すなわち証明に踏み込んだ人物として語られることがあります。
ただし、ピタゴラス本人の著作は残っておらず、実際に本人が証明したのか、あるいはピタゴラス学派の成果が後に彼の名で語られるようになったのかは確定できません。そのため、「ピタゴラスが初めて証明した」と断言するよりも、「証明数学の始まりを象徴する人物・学派として語られてきた」と見るのが適切です。
ピタゴラスの証明方法として紹介されるものには、直角三角形をパズルのように動かした、数式を全く使わない証明方法があります。(図4)
ただし、この証明方法をピタゴラス本人のものと断定するより、彼の名と結びつけられてきた代表的な証明として紹介するのがよいでしょう。


正多角形、正多面体の研究と結びつけられる
ピタゴラスやピタゴラス学派は、正多角形の作図方法の研究と結びつけて語られ、約200年後のユークリッド(Euclid , B.C.330頃~B.C.275頃)の名著『原論』へつながる幾何学史の中で紹介されます。
特に、ピタゴラス学派では正五角形が重視され、ピタゴラス教団のシンボルマークになっていたと伝えられています。


また、後世の伝承では、ピタゴラスやピタゴラス学派は正多面体についても研究をし、正四面体、正六面体、正十二面体を扱ったとされています。

こうした研究は、伝承上、立体幾何学の大きな前進に関わるものとして位置づけられています。
約150年後のテアイテトス(Theaetetus, B.C.415頃-B.C.369)が正八面体と正二十面体を発見し、さらには正多面体が5種類しか無いことを証明しています。
九九表と結びつけられる
ピタゴラスは今の「九九表」の元祖とも言える、$~10 \times 10 ~$の積表と結びつけて語られます。

この表を「ピタゴラスの表」と言い、彼が学んだと伝えられるバビロニアの数表からヒントを得て作られたものとして説明されることがあります。
ピタゴラスに関するエピソード
ピタゴラスはタレスと同様、口頭での伝承や後世の文献を通して語られてきた人物であるため、様々な伝説が残っています。以下のエピソードは、史実として確定した記録というより、ピタゴラスがどのような人物として記憶されてきたのかを示す逸話として紹介します。
お金を払って学生に授業をしたという逸話
30歳頃に出生地サモス島に戻ってきたピタゴラスは、学生に講義をして暮らしたと伝えられています。
最初は名声も実績もなかったピタゴラスについて、次のような逸話が残っています。
エジプトとバビロニアを旅して学んだことを、出生地であるサモス島で教えようとしたが、学生が集まらなかったと語られる。
そこで、ある貧しそうな少年に声をかけ、次のようなアルバイトの勧誘をしたという。
- 少年はピタゴラスの学校に通い、数学の授業を受ける。
- 定理を1つ理解するごとに、ピタゴラスが少年にお金を渡す。
少年は数学について全く知らなかったものの、定理を覚えると本当にお金がもらえたため、毎日学校に通ったとされる。
何か月か経ち、貯金が底をついてしまったピタゴラスが少年に「授業は今日で終わり」と告げると、少年は「お金を払うので授業を続けてください」と言った、と伝えられる。
最初はお金目的で始めた数学の勉強に、いつの間にかのめり込んでしまったという筋書きの逸話です。
この話が史実かどうかは別として、ピタゴラスの教え方の上手さを印象づける逸話として読むことができます。
この伝承では、10年間のサモス島での講義生活が大きな成功につながらなかったため、ピタゴラスは南イタリアのクロトンに移る決心をしたとされています。
ピタゴラス教団を創設したと伝えられる
クロトンで、ピタゴラスはのちにピタゴラス教団と呼ばれる宗教的な共同体を作ったとされています。
教団を創設する際の権威付けとして、ピタゴラスは以下のような行動をとった、という伝承があります。
クロトンに引っ越してきてから少し経った後、ピタゴラスは地下に住み始めたとされる。
毎日、母親から町の様子を聞きつつ、水と野菜だけを摂取して生活していたという。
1か月後、やせ衰えた姿で民会に出席した際、ピタゴラスを知る人は彼の変わり果てた姿を見て、不気味がったと語られる。
その様子を見てピタゴラスは、以下のように主張したとされる。
ピタゴラス私は今、あの世から戻ってきたばかりだ。
この1か月間に、クロトンで起こったことも全て知っているぞ。
物語の中では、クロトンの人々はピタゴラスが死の世界にいたことを信じてしまったとされる。
この話は史実というより、ピタゴラスが教祖として崇められるようになった経緯を説明する後世の逸話として読むのがよいでしょう。


そのピタゴラス教団には男女・子ども問わず入門できたとされ、教団員はピタゴラス教徒と呼ばれ、厳しい戒律を遵守しながら共同生活・共同研究をしたと伝えられています。
輪廻転生を信じ、人間の汚された魂を浄化して神に返すことを目的としていたとされるピタゴラス教団には、次のような戒律があったと伝えられています。
- 菜食主義であること。
- 豆を食べてはいけない、白い羽には触れてはいけない。
- 財産は教徒で共有すること。
- 教徒が発見したことは教団ひいては教祖であるピタゴラスの発見とし、その発見を記録として残すようなことはしない。
- 就寝前に神々への讃歌を歌うこと。
4つ目の戒律として伝わる内容を踏まえると、ピタゴラスの定理の証明をはじめとする功績(前述)は、ピタゴラス本人の業績なのか、教団全体の成果なのかを区別しにくいことがわかります。
秘密を守るために人を殺したという伝説
ピタゴラスの定理から$~a^2+b^2=c^2~$を満たす数を教団で研究するうちに、直角二等辺三角形の辺の比が自然数で表せないことに気づいたとされています。


図8のように、どの辺を$~1~$にしても他の辺が$~\displaystyle \frac{自然数}{自然数}~$で表せないことになります。
この発見について、以下のような有名な伝説が残っています。
伝説では、底辺と高さが$~1~$である直角二等辺三角形の斜辺が、$~\displaystyle \frac{自然数}{自然数}~$で表せない(通約不能である)ことにピタゴラスまたは教団が気付いたとされる。
これは「万物は数なり」という教義に反する事実であり、この発見を教団外に漏らさないよう、ピタゴラスが教徒たちに口止めをした、という筋書きで語られる。
しかし、教徒の一人ヒッパソス(Hippasus, B.C.5世紀中頃)が、$~\sqrt{2}=1.41421356~\cdots~$は通約不能であることを証明し、そのことを教団外に口外したとされる。


(出典:Boccanera G., Public domain, via Wikimedia Commons)
そして、ピタゴラスがそれに怒り、他の教徒に命じてヒッパソスを海に沈めて殺害した、という物語として語られています。
この物語では、ピタゴラス教団は「裏切り者には死あるのみ」と言わんばかりの秘密結社として描かれています。
しかし、ピタゴラスとヒッパソスの生きている期間にズレがあるとされるため、このエピソードを史実として扱うのは慎重であるべきです。通約不能量の発見がピタゴラス学派に大きな衝撃を与えた、という数学史上の問題を象徴する伝説として読むのがよいでしょう。


暴徒に襲われて死亡したと伝えられる
厳しい戒律がありながらも、教徒を増やしていったピタゴラス教団は政治にも関心を持ち始め、所在地であるクロトンの政治勢力や住民からの反感を買うようになったと伝えられています。
後世の伝承では、ある日、暴徒が教団の建物を焼き討ちしたとされます。


ピタゴラスの死に関しては、以下のような複数の説があります。
- 多くの教徒と共に、燃えさかる建物の中で死亡したという説
- 焼き討ちからは逃げられたものの、苦手な豆畑を通れずに畑の前で殺されたという説
- メタポンティオンまで逃げることができ、その地で老死したという説
いずれにせよ、後世の語りでは、この焼き討ち事件をきっかけにピタゴラスが歴史の表舞台から消えたと説明されます。
残った教徒たちはギリシャ本土へと逃げたと伝えられます。
教祖亡き後で秘密を守る必要が薄れたため、それまでのピタゴラス教団の研究成果が広まり、ギリシャ数学の発展に貢献したと説明されることがあります。
まとめ
厳しい戒律を持つ教団の教祖として、また数論や幾何学の研究と結びつけられる人物として語られてきたピタゴラス。
この記事では、彼やピタゴラス学派に結びつけられてきた功績、そして後世に伝わる奇抜なエピソードについて解説してきました。
- バビロニアで知られていたピタゴラスの定理を証明した人物として語られるが、現在ではピタゴラス本人の業績と断定するより、ピタゴラス学派に結びつく伝承として慎重に扱う必要がある。
- 「万物は数なり」という教義と結びつけられ、数の研究を行った学派の象徴的人物として語られてきた。
- ピタゴラス教団には厳しい戒律があったと伝えられ、教徒たちが協力して数学の研究をしていた学派として紹介される。
次の記事では、$~\sqrt{2}~$の通約不能な数のように、当時のギリシャ数学者を悩ませた問題について解説します。







伝承や伝説として読むと面白いけど、ピタゴラス教団には入りたくないなぁ。



いろいろなルールが決まっていて、自由は無さそうだよね。
ただし、ピタゴラス教団についても後世の文献や伝承に頼る部分が大きいから、細部まで確定した事実として読むのではなく、「ピタゴラス学派がどのような集団として記憶されてきたか」を示す話として受け止めるのが大切だよ。
ちなみに、ピタゴラスは教団内のテアノという女性と結婚したとも伝えられているよ。




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