三平方の定理で有名な古代ギリシャの数学者・ピタゴラス。
- 三平方の定理を初めて証明した。(発見したのはバビロニア人)
- 「万物は数なり」と主張し、音楽や天文学を数学とつなげた。
などで有名であり、「ピタゴラス数」や「ピタゴラス音階」といった彼の名を冠する言葉もいろいろと存在しています。
この記事では、ピタゴラスの数学の功績だけでなく、人生年表や活動場所、有名なエピソードを解説。
実は、ピタゴラスは数学教団の教祖様だったんです!
時代 | 紀元前569年頃~紀元前500年頃 |
場所 | ギリシャ |
ピタゴラスの生涯
ピタゴラス(Pythagoras , B.C.569頃~B.C.500頃)は、古代ギリシャの数学者であり、タレスに次いで2番目に古い数学者です。
ピタゴラスの年譜
タレスやピタゴラスが生きていた時代の歴史は、紀元前4世紀頃まで口頭で後世へと伝わったため、細かな情報までは残っていません。
そのため、ピタゴラスの一生を表した年表は、以下のようにざっくりとしたものになります。
イオニア地方のサモス島で生まれる
父はムネサルコス、母はピュタイスという名で、商人の家庭に生まれる。2人の兄がいた。
エジプトやバビロニアを旅行する
タレスの助言により留学。特にバビロニアから様々なことを学ぶ。
サモス島で講義をして暮らす
最初は全く学生が集まらなかった。
クロトンに引っ越し、教団を創設する
「ピタゴラス教団」と呼ばれ、厳しい戒律の下で共同生活を送った。
- 「万物は数なり」と主張した。
- 数の研究を行い、数を多種多様に分類した。
- ピタゴラスの定理を証明した。
- 正多角形や正多面体の研究をした。
- 「ピタゴラスの表」を作成した。
- 教団内のテアノという女性と結婚する。
暴徒に襲われて死亡
協会の建物内で焼死した、豆畑の前で殺された、メタボンティオンという町まで逃げてから寿命で亡くなった等、いろいろな説が存在する。
ピタゴラスの活動場所
ピタゴラスは幼い頃から算数と音楽の才能を見せ、サモス島の南東約50kmのミレトスに住むタレスから教えを受けました。
タレスの助言を受け、ピタゴラスは若い頃にエジプトやバビロニアへ留学しています。(ちなみに、タレスも若い頃にエジプトとバビロニアを旅しています)
留学を終えて故郷のサモス島に戻り、講義をして暮らしていたものの、大した活躍ができませんでした。
そこで、故郷を捨てる決心をし、イタリアのシシリー(シチリア島)やターレントゥム(ターラント)を転々とし、最終的にはクロトネに落ち着きました。
クロトネでピタゴラス教団を創設し、数の研究を続けたものの、教団の影響力を恐れて暴徒化した市民に焼き殺されてしまいました。
ピタゴラスの死については様々な説があり、暴徒に襲われた際にメタポンティオンまで逃げてそこで死亡したという説も有力です。
ピタゴラスの数学的功績
ピタゴラスと言えば、「ピタゴラスの定理」。
しかし、実際は数論にも力を入れていました。
「万物は数なり」と主張した
ピタゴラスが創設したピタゴラス教団の教義は「万物は数なり」でした。
自然は数学を通じて理解できるという考えのもと、音楽や天文学に数学をあてはめました。
例として、以下のような功績が残っています。
- 人間にとって聞きやすい音が出るような弦の長さの比を「ドレミファソラシド」と定義した。
- 各惑星までの距離の比や、星の軌跡が描く図形を計算・記録した。
これらの研究を続けていくなかで、「数が万物を支配している」=「万物は数なり」という考え方が教団内に定着していきました。
特に自然数への崇拝が強く、どんな数でも自然数の比で表せるという考えが人殺しにまで発展しています。(後述)
数の分類をした
万物を支配する数について、ピタゴラス教団では細かく研究し、数を分類することに力を入れました。
例えば、以下のような分類を生み出しています。
数の分類 | 説明 | 数の例 |
三角数 | 正三角形の形となるように石を並べるとき、必要な石の数を表す。 | $~1~,~3~,~6~,~10~,~\cdots$ |
偶偶数 | 素因数が$~2~$のみの数。 | $~2~,~4~,~8~,~16~,~\cdots$ |
完全数 | 自身以外の約数の和が、自身と等しくなる数。 | $~6~,~28~,~496~,~8128~,~\cdots$※1 |
友愛数 | それぞれの自身以外の約数の和が、相手と等しくなる数の組み合わせ。 | $~220~$と$~284~$※2 |
※1:ピタゴラスが見つけた完全数は$~8128~$までの4つだけ。2021年現在、完全数は51個見つかっている。
※2:ピタゴラスが見つけた友愛数は$~220~$と$~284~$の1組だけ。実際は、10億組を超える友愛数が存在する。
他にも、$~2~$は女性、$~3~$は男性、$~5(=2+3)~$は結婚といった意味を数に持たせ、万物の性質やふるまいを数が決めるという考え方も持っていました。
「ピタゴラスの定理」を証明した
彼の名が付いた「ピタゴラスの定理」は、別名「三平方の定理」とも言い、現在でも知名度の高い定理です。
直角をはさむ辺の長さが$~a~,~b~$、斜辺が$~c~$である直角三角形において、
a^2+b^2=c^2
が成り立つ。
この定理自体は、ピタゴラスが生まれる約1300年前からバビロニアで知られていました。
ピタゴラスはバビロニアに留学した際にこの定理を学んでいます。
留学から帰ってきたピタゴラスは、なぜこの定理が成り立つのか、すなわち証明を行ったため、彼の名が定理についています。
ピタゴラスの証明方法は、直角三角形をパズルのように動かした、数式を全く使わない証明方法でした。(図4)
正多角形、正多面体についての研究をした
ピタゴラスは正多角形の作図方法を研究し、約200年後のユークリッド(Euclid , B.C.330頃~B.C.275頃)の名著『原論』に影響を与えています。
特に、ピタゴラスが気に入っていたのは正五角形で、ピタゴラス教団のシンボルマークになっていました。
また、ピタゴラスは正多面体についても研究をし、正四面体、正六面体、正十二面体を発見しています。
この発見は立体幾何学の大きな前進に寄与しました。
約150年後のテアイテトス(Theaetetus, B.C.415頃-B.C.369)が正八面体と正二十面体を発見し、さらには正多面体が5種類しか無いことを証明しています。
九九表を作成した
ピタゴラスは今の「九九表」の元祖とも言える、$~10 \times 10 ~$の積表を作りました。
この表を「ピタゴラスの表」と言い、彼の留学先であるバビロニアの数表からヒントを得て作られたと考えられています。
ピタゴラスに関するエピソード
ピタゴラスはタレスと同様、口頭で後世へと伝わった人物であるため、様々な伝説が残っています。
お金を払って学生に授業をした
30歳頃に出生地サモス島に戻ってきたピタゴラスは、学生に講義をして暮らしました。
最初は名声も実績もないピタゴラスについて、次のような逸話が残っています。
エジプトとバビロニアを旅して学んだことを、出生地であるサモス島で教えようとしたが、学生が集まらなかった。
そこで、ある貧乏そうな少年に声をかけ、次のようなアルバイトの勧誘をした。
- 少年はピタゴラスの学校に通い、数学の授業を受ける。
- 定理を1つ理解するごとに、ピタゴラスが少年にお金を渡す。
少年は数学について全く知らなかったものの、定理を覚えると本当にお金がもらえたため、毎日学校に通った。
何か月か経ち、貯金が底をついてしまったピタゴラスは少年に「授業は今日で終わり」と告げると、少年は「お金を払うので授業を続けてください」と言った。
最初はお金目的で始めた数学の勉強に、いつの間にかのめり込んでしまったというお話です。
ピタゴラスの教え方の上手さが、このお話からわかるでしょう。
しかし、10年間のサモス島での講義生活は大きな成功に繋がらなかったため、ピタゴラスは南イタリアのクロトンに移る決心をしました。
ピタゴラス教団を創設した
クロトンで、ピタゴラスはのちにピタゴラス教団と呼ばれる宗教的な協同体を作りました。
教団を創設する際の権威付けとして、ピタゴラスは以下のような行動をとったとされています。
クロトンに引っ越してきてから少し経った後、ピタゴラスは地下に住み始めた。
毎日、母親から町の様子を聞きつつ、水と野菜だけを摂取して生活していた。
1か月後、やせ衰えた姿で民会に出席した際、ピタゴラスを知る人は彼の変わり果てた姿を見て、不気味がった。
その様子を見てピタゴラスは、以下のように主張した。
私は今、あの世から戻ってきたばかりだ。
この1か月間に、クロトンで起こったことも全て知っているぞ。
クロトンの人々は、ピタゴラスが死の世界にいたことを信じてしまった。
このようにして、ピタゴラスは教祖として崇められ、ピタゴラス教団の創設・繁栄に繋がっていきました。
そのピタゴラス教団には男女・子ども問わず入門でき、教団員はピタゴラス教徒と呼ばれ、厳しい戒律を遵守しながら共同生活・共同研究をすることになります。
輪廻転生を信じ、人間の汚された魂を浄化して神に返すことを目的としていたピタゴラス教団には、次のような戒律がありました。
- 菜食主義であること。
- 豆を食べてはいけない、白い羽には触れてはいけない。
- 財産は教徒で共有すること。
- 教徒が発見したことは教団ひいては教祖であるピタゴラスの発見とし、その発見を記録として残すようなことはしない。
- 就寝前に神々への讃歌を歌うこと。
4つ目の戒律から考えると、ピタゴラスの定理の証明をはじめとする功績(前述)は、本当にピタゴラス本人によるものなのかが疑わしいです。
秘密を守るために人を殺した?
ピタゴラスの定理から$~a^2+b^2=c^2~$を満たす数を教団で研究するうちに、直角二等辺三角形の辺の比が自然数で表せないことに気づき始めました。
図8のように、どの辺を$~1~$にしても他の辺が$~\displaystyle \frac{自然数}{自然数}~$で表せなかったのです。
この発見について、以下のようなエピソードが残っています。
底辺と高さが$~1~$である直角二等辺三角形の斜辺が、$~\displaystyle \frac{自然数}{自然数}~$で表せない(通約不能である)ことに気付いてしまったピタゴラス。
「万物は数なり」という教義に反する事実であり、この発見を教団外に漏らさないよう、ピタゴラスは教徒たちに口止めをした。
しかし、教徒の一人ヒッパソス(Hippasus, B.C.5世紀中頃)が、$~\sqrt{2}=1.41421356~\cdots~$は通約不能であることを証明し、そのことを教団外に口外した。
ピタゴラスはそれに怒り、他の教徒に命じてヒッパソスを海に沈めて殺した。
「裏切り者には死あるのみ」のピタゴラス教団。
しかし、ピタゴラスとヒッパソスの生きている期間にズレがあるため、このエピソードは真偽は疑わしいところです。
暴徒に襲われて死亡した
厳しい戒律がありながらも、教徒を増やしていったピタゴラス教団は政治にも関心を持ち始め、所在地であるクロトンの政治勢力や住民からの反感を買うようになりました。
ある日、暴徒が教団の建物を焼き討ち。
ピタゴラスの死に関しては、以下のような説があります。
- 多くの教徒と共に、燃えさかる建物の中で死亡
- 焼き討ちからは逃げられたものの、苦手な豆畑を通れずに畑の前で殺された
- メタポンティオンまで逃げることができ、その地で老死
いずれにせよ、この焼き討ち事件でピタゴラスが歴史の表舞台からは消えたことは確かです。
残った教徒たちはギリシャ本土へと逃げました。
教祖亡き後で秘密を守る必要が無くなったため、それまでのピタゴラス教団の研究成果を公表し、ギリシャ数学の発展に貢献しています。
まとめ
厳しい戒律を持つ教団の教祖として、数論や幾何学の研究をしたピタゴラス。
彼の功績や奇抜なエピソードについて解説してきました。
- バビロニアで知られていたピタゴラスの定理を初めて証明した。
- 「万物は数なり」という教義を唱え、数の研究を行った。
- 創設したピタゴラス教団は厳しい戒律があり、教徒たちは協力して数学の研究をしていた。
次の記事では、$~\sqrt{2}~$の通約不能な数のように、当時のギリシャ数学者を悩ませた問題について解説します。
歴史に残る活躍をしているものの、ピタゴラス教団には入りたくないにゃ。
いろいろなルールが決まっていて、自由は無さそうだよね。
でも、こんな昔の時代に女性に学問が開かれていたという点は驚くべきことだね。
ちなみにタレスは教団内のテアノという女性と結婚もしたよ。
参考文献(本の紹介ページにリンクしています)
- 『カッツ 数学の歴史』,pp.57-61
- 『メルツバッハ&ボイヤー 数学の歴史Ⅰ』,pp.45-55
- 『数学史 数学5000年の歩み』,pp.88-94
- 『数学の歴史物語』,pp.24-40
- 『数学の流れ30講(上)』,pp.32-37
- 『世界数学者事典』,pp.399-400
- 『数学者図鑑』, pp.13-18
- 『ずかん 数字』,p67
- 『フィボナッチの兎』, pp.26-28
- ポール・パーソンズ、ゲイル・ディクソン(2021)『図解教養事典 数学』,p.21,NEWTON PRESS
- マイケル・J・ブラッドリー(2009)『数学を切りひらいた人びと1-数学を生んだ父母たち』,pp.29-48
- ピエルジョルジョ・オーディフレッディ著,河合成雄訳(2021)『幾何学の偉大なものがたり』,pp69-86
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