最古の文明と呼ばれるメソポタミア。
数学史上、メソポタミアの数学はバビロニアの数学とも言われています。
紀元前2000年頃、メソポタミアの地にバビロニア人が侵入し、バビロンを拠点としました。
そのため、バビロンを中心としたこの地域一帯はバビロニアと呼ばれ、支配者ハンムラビの時代には数学が確立していたことがわかっています。
この記事では、呼称の違いを解剖すると共に、バビロニアの情報がどのようにして現代にまで伝わっているのかを解説します。
| 時代 | B.C.4000年頃~B.C.500年頃 |
| 場所 | バビロニア(メソポタミア) |
バビロン ∈ バビロニア ⊂ メソポタミア
バビロンとバビロニア、メソポタミアが指すものを確認し、言葉の違いを理解してみましょう。
メソポタミアはイラクとシリア一帯の地域
3つの言葉の中で、一番知名度が高いのはメソポタミアでしょう。
四大文明の1つとして、メソポタミア文明があり、チグリス川とユーフラテス川の周辺で発展しました。
その文明が興ったメソポタミア地域は、図1のように、今のイラクとシリアにまたがっています。

(出典:Goran tek-en, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons)
エジプト文明とナイル川の関係と同じように、チグリス川とユーフラテス川の氾濫がメソポタミア地域に肥沃な土壌を与えました。
Wikipediaでは、メソポタミアが以下のように説明されています。
ティグリス川とユーフラテス川の間の沖積平野である。現在のイラクの一部にあたる。
Wikipediaより

バビロニア人がメソポタミアの都市バビロンを征服
紀元前4000年頃から、メソポタミア地域にシュメール人が住み始め、「楔形文字」という独自の文字を発明しています。

(出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons)
シュメール人が住んでいたものの、陸続きの攻められやすい場所ということもあり、外敵の侵入が絶えずありました。
そこで、紀元前3000年頃には、シュメール人がいくつかの都市国家を形成し、軍備や土地に関する情報をまとめ、外敵の侵入に備えるようになります。
しかし、紀元前2000年頃、バビロニア人がメソポタミア地域に侵入し、南部の都市バビロンを征服しました。
メソポタミア地方の古代都市。市域はバグダードの南方約90kmの地点にユーフラテス川をまたいで広がる。
Wikipediaより
バビロニアはバビロンを中心とした地域の呼称
紀元前1750年頃、支配者ハンムラビがメソポタミア地域をほぼ征服。
バビロンを中心とする、メソポタミアの南部地域をバビロニアと呼ぶようになりました。

(出典:MarioM, Public domain, via Wikimedia Commons より改変)
現代のイラク南部、ティグリス川とユーフラテス川下流の沖積平野一帯を指す歴史地理的領域である。
Wikipediaより
以上のことから、都市名であるバビロン、地域名であるバビロニアとメソポタミアの関係は、以下のように表せるでしょう。
バビロン ∈ バビロニア ⊂ メソポタミア
バビロニアを中心に争いが続いた
ハンムラビがバビロニアを中心に、一度はメソポタミア地域を掌握したものの、その後も争いが続きました。
このように、バビロニアを中心に、1000年以上争いが絶えず繰り返されています。
そのため、メソポタミアの歴史はバビロニアの歴史と言っても過言ではなく、言葉の意味が混ざってしまう原因にもなっているのです。
バビロニア人は粘土に文字を残した
数学をはじめ、バビロニアの歴史を現代にまで伝えているのは、粘土板の存在です。
粘土板には楔形文字が彫られており、数表や土地の借用書、地図など様々な資料が見つかっています。

(出典:BigEars42, Public domain, via Wikimedia Commons)
粘土板の原材料は川の泥
粘土板は以下のような手順で作成されました。
- 川の泥を練り、平らになるように形を固める。
- スタイラス(葦の茎を切って作った筆記具)を押し付けることで、楔形の跡をつける。
- 乾燥させ、天日干しで硬くして保存する。

(出典:Otto Wilhelm Thomé, Public domain, via Wikimedia Commons)
保存する場合には、天日干しで硬くしますが、保存しない場合には表面を平らにして何度も使用されました。
乾燥した粘土板は、古代エジプトのパピルスよりも文字の保存に適しており、バビロニアのほうが物的証拠に優れています。
数学の粘土板は紀元前2000年以後がほとんど
粘土版は丈夫な記録媒体として、これまでにたくさん出土しています。
特に、ニップルという都市の一部分からは50000枚の粘土板が出土され、その時代の政治や社会の様子を現代に伝えています。

(出典:Mary Harrsch, CC BY 2.0, via Wikimedia Commons)
数学に関してもたくさんの粘土板が見つかっているものの、そのほとんどは紀元前2000年以後のものでした。
それらの粘土板から、バビロニアを中心にメソポタミアを統治したハンムラビ王朝の時代(紀元前1750年頃)には、数体系が確立していたことがわかっており、
メソポタミアの数学 \fallingdotseq バビロニアの数学
と数学史上では言い表しています。
まとめ・参考文献
バビロニアとメソポタミアの言葉の違いや、数学をはじめとする当時の情報が、どのように現代に伝わっているかを解説しました。
- バビロン(都市)∈ バビロニア(地域)⊂ メソポタミア(地域) という関係
- 3000年前の情報は、粘土板に書かれた楔形文字によって、現代に伝わっている。
粘土板に残るバビロニアの数学については、次の記事以降で詳しく解説します。



粘土版、すごいECOだね。



重要な文書は石に彫られることもあったよ。ハンムラビ王が治世のために定めた『ハンムラビ法典』は閃緑岩に彫られているんだ。
このブログの参考文献
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- 『カッツ 数学の歴史』
- 『メルツバッハ&ボイヤー数学の歴史(Ⅰ・Ⅱ)』
- 『数学の流れ30講(上・中・下)』
- 『数学の歴史物語』
- 『フィボナッチの兎』
- 『高校数学史演習』
- 『数学の世界史』
- 『数学の文化史』
- 『モノグラフ 数学史』
- 『数学史 数学5000年の歩み』
- 『数学物語』
- 『世界数学者事典』
- 『数学者図鑑』
- 『数学を切りひらいた人々(1~5)』
- 『天才なのに変態で愛しい数学者たちについて』
- 『素顔の数学者たち』
- 『数学スキャンダル』
- 『ギリシャ数学史』
- 『古代ギリシャの数理哲学への旅』
- 『ずかん 数字』
- 『πとeの話』
- 『代数学の歴史』
- 『幾何学の偉大なものがたり』
- 『アキレスと亀』
- 『ピタゴラスの定理100の証明法』
- 『ピタゴラスの定理』
- 『フェルマーの最終定理』
- 『哲学的な何か, あと数学とか』
- 『数と記号のふしぎ』
- 『身近な数学の記号たち』
- 『数学用語と記号ものがたり』
- 『納得する数学記号』
- 『図解教養事典 数学』
- 『イラストでサクッと理解 世界を変えた数学史図鑑』(拙著)
- 『教養としての数学史』(拙著)


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