紀元前334年からの約300年間は、アレクサンドロス大王の東方遠征をきっかけに、ギリシャ文化と東方文化が融合した特異な時代となっています。
この期間を、ギリシャ風を意味する「Hellenistic」に由来して「ヘレニズム時代」と呼んでいます。
ヘレニズム時代ではポリスの枠組みから解放された個人主義を背景に、エジプトのアレクサンドリアは学問と文化の中心地として特に繁栄し、数学を含む多くの分野で革新的な研究が行われました。
本記事では、ヘレニズム時代の歴史に触れながら、数学がどのように発展していったのかを詳しく解説します。
時代 | 紀元前334年(アレクサンドロス大王の東方遠征)~紀元前30年(プトレマイオス朝エジプト滅亡) |
場所 | アレクサンドリア |

ヘレニズム時代の数学史年表
アレクサンドロス大王の東方遠征により、アレクサンドリアを中心に始まったヘレニズム(ギリシャ風)時代。
古代ギリシャの数学を基本にしつつも、求められる数学が少しずつ変わっていった時代でした。
ギリシャにオリエントの文化が流れ込む
アレクサンドロス大王が東方遠征したことで、ギリシャに外国の文化が流れ込むようになった。
アレクサンドロス大王が死亡する
ディアドコイ(後継者)戦争が始まり、アレクサンドロス大王の領土が分割されていった。
プトレマイオス朝エジプトが誕生する
アレクサンドロス大王の後継者の1人であるプトレマイオス1世が、アレクサンドリアを首都に国を作った。
アルキメデスが円周率や放物線の研究をする
アレクサンドリアで学んだアルキメデスは地元シラクサで、物理や数学の研究を行った。
エラトステネスが地球の外周を計算する
シエネ(エジプト南部)とアレクサンドリア(エジプト北部)の緯度差を実験から算出し、地球の1周の長さを計算した。
アルキメデスがローマとシラクサの戦争で活躍する
アルキメデスは数学や物理を応用した武器を開発し、圧倒的な力を持つローマを困らせた。
アポロニウスが円錐曲線の研究を行う。
アレクサンドリアやペルガモン(現:トルコ)で『円錐曲線論』を書き、放物線や楕円、双曲線についての研究を行った。
ヒッパルコスが三角法を使用する
アレクサンドリアやロードス島(現:ギリシャ)で天体観測を行い、天体の動きを研究するために$~\sin{}~$の原型となる概念を定義した。
プトレマイオス朝が滅亡する
ローマとの戦争に敗れ、アレクサンドロス大王の領土だった地域はほとんどローマの支配下に置かれ、ヘレニズム時代が終了した。
このように、ヘレニズム時代の著名な数学者たちは全員、プトレマイオス朝エジプトの首都アレクサンドリアで学んだり、研究したりしています。
また、古代ギリシャ由来の論理数学の研究だけを行う数学者もいれば、近隣で力をつけてきたローマと同様に実用的な数学を重視する数学者もいました。
ヘレニズム時代の数学は、古代ギリシャからローマへの過渡期の数学と言えるでしょう。
ヘレニズム時代の歴史
論理数学と実用的な数学という両方の側面を持つヘレニズム時代の数学。
これら2種類の数学が同居する時代となった歴史的な背景を見てみましょう。
アレクサンドロス大王の東方遠征
古代ギリシャで力を持っていたアテネが紀元前338年にマケドニアによって制圧され、紀元前334年にはマケドニアの王アレクサンドロス大王の指揮の下、東方遠征が開始されました。
これにより、古代ギリシャとオリエント地域(エジプトやメソポタミア)の文化が融合したヘレニズム時代が始まりました。

(出典:Giovanni Dall’Orto, Attribution, via Wikimedia Commons)
東方遠征は最終的にインド西北部まで到達し、東西に広がる帝国を築きました。

(出典:Generic Mapping Tools, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)

インドは戦争用の象を有していて、これ以上東方に向かうことは難しいと判断したよ。
大王の急死で3つに国が分かれた
インド西北部に達した後、バビロンにまで戻ってきたアレクサンドロス大王は、熱病にかかります。
後継者を明言しないまま、急死してしまいました。



一番強い者が、この帝国を治めてく‥れ‥‥
そのため、大王の後継者(ディアドコイ)たちが広大な領土をめぐって争い、主にアンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトの3つに分かれることになったのです。


(出典:Javierfv1212, Public domain, via Wikimedia Commons)
プトレマイオス朝エジプトの繁栄
紀元前3世紀はじめに、ディアドコイたちの戦争がある程度一区切りつきます。
アレクサンドロス大王の側近として活躍したプトレマイオス1世は、亡き大王の意志を継ぎ、プトレマイオス朝の首都アレクサンドリアを学問に中心地にしたいと考えました。


(出典:Louvre Museum, Public domain, via Wikimedia Commons)
そこで、アレクサンドリアに2つの学問施設を作ります。
施設名 | 特徴 |
ムセイオン | アリストテレスの学校「リュケイオン」を手本にした研究所。数学などの自然科学が研究された。 |
アレクサンドリア図書館 | ムセイオンに隣接する図書館。アテネをはじめとするさまざまな周辺地域の書物を強引に集め、蔵書数50万冊以上を誇った。 |



大金を払ってでも古書を買い、寄港した船から書物を借りて転写せよ!
なんなら、借りパクしてもかまわん!
また、プトレマイオス1世は周辺地域の有名な科学者たちに大金を払ってムセイオンに集め、上のような恵まれた環境の中で研究活動に取り組んでもらいました。
このときに呼ばれた研究者の中には、アテネに住んでいたユークリッド(Euclid , 紀元前330年頃~紀元前275年頃)も含まれており、その後の数学者たちもアレクサンドリアで研究に励んでいます。
ヘレニズム時代の数学者たちは、アレクサンドリア図書館の書物で学ぶことができたため、古代ギリシャの知識を得たうえでそれを発展させることができました。
ローマの台頭
ギリシャやオリエン地域がヘレニズム時代に入った頃から、エジプトから地中海を挟んで北西の方向にあるローマ(共和制ローマ)が急速に力をつけてきました。
最初はイタリア半島中心だけだったローマが、少しずつ地中海地域を侵攻していきます。


(出典:Bourrichon, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)
紀元前214年には、ローマはアルキメデスが暮らしていたシチリア島のシラクサを攻めます。
アルキメデスは研究してきた物理学や数学の知識を使い、革新的な武器を作って対抗したものの、ローマ軍によって殺されてしまいました。
その後もローマの侵攻は続き、アレクサンドロス大王の元領土にあたるアンティゴノス朝マケドニアは紀元前168年に敗北。
さらに、紀元前64年にセレウコス朝シリアもローマの属州となります。


(出典:Bourrichon, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)
ローマはギリシャ由来の論理数学は不要と考えており、支配した後のアテネでは、学者たちに実用的な数学を行うよう求めました。


(出典:Alvaro qc by the original work of Husar de la Princesa, CC BY-SA 2.5, via Wikimedia Commons)
また、ローマの侵攻に恐れをなしたプトレマイオス朝エジプトでも、ローマに対抗する力を蓄えるために、実用的な数学を少しずつ奨励するようになったのです。
プトレマイオス朝エジプトの滅亡
結局のところ、ローマの勢いは止まらず、紀元前30年にプトレマイオス朝エジプトもローマの強大な力に屈しました。


(出典:Laureys a Castro, Public domain, via Wikimedia Commons)
アレクサンドロス大王によって始まったヘレニズム時代が、こうして約300年の幕を閉じたのです。
この300年の間で、数学を行う場所はアレクサンドリアが中心のままですが、研究される領域が古代ギリシャ由来の論理数学から、社会に要請に応じるための実用的な数学分野へと変わっていきました。
ヘレニズム時代の数学者たち
論理数学と実用的な数学が同居したヘレニズム時代の数学。
この2つの観点で、ヘレニズム時代の数学者たちの活躍をまとめると、以下のようになります。
論理数学 | 実用的な数学 | |
ユークリッド (紀元前330年頃~紀元前275年頃) | ・『原論』で古代ギリシャの数学をまとめた。 | |
アルキメデス (紀元前287年頃~紀元前212年) | ・円周率$~3.14~$まで求めた。 ・放物線の面積を求めた。 ・球と円柱と円錐の関係を求めた。 | ・てこの原理や放物線を利用して、ローマ軍と戦うための武器を開発した。 |
エラトステネス (紀元前276年頃~紀元前194年) | ・「エラトステネスのふるい」によって、素数を発見するアルゴリズムを作った。 | ・図形の性質や比を使って地球の大きさを計算した。 |
アポロニウス (紀元前262年頃~紀元前190年頃) | ・円錐曲線を定義し、そのたくさんの性質を証明した。 ・「アポロニウスの円」を研究した。 | |
ヒッパルコス (紀元前180年頃~紀元前125年) | ・天文学のために三角比の概念を確立した。 ・太陽や月の大きさや、地球からの距離をそれぞれ計算で求めた。 |
彼らの功績を一人ひとり簡単にまとめます。
ユークリッド:ギリシャ数学をまとめた
ユークリッド(Euclid , 紀元前330年頃〜紀元前275年頃)は、ギリシャ数学をまとめた『原論』を記した数学者です。


(出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons)
- 古代ギリシャの数学を体系的にまとめた『原論』を記した。
- 5つの公理と5つの公準から、「ユークリッド幾何学」の世界を作り出した。
彼が『原論』で述べた5つの公理と5つの公準とは、次のようなものです。
- 公理(1):同じものに等しいものは互いに等しい。
- 公理(2):等しいものに等しいものを加えた和は互いに等しい。
- 公理(3):等しいものから等しいものを引いた差は互いに等しい。
- 公理(4):互いに重なり合うものは互いに等しい。
- 公理(5):全体は部分より大きい。
- 公準(1):任意の点から任意の点へ直線(線分)を引くこと。
- 公準(2):任意の直線(線分)を連続して伸ばすこと。
- 公準(3):任意の中心と任意の半径の円を描くこと。
- 公準(4):すべての直角は互いに等しいこと。
- 公準(5):二つの直線と交わる直線の同じ側の内角の和が二直角($~180^{\circ}~$)より小さいならば、二つの直線を同じ側に伸ばしていけばいつかは交わること。
ユークリッドがこれらの公理と公準から築いた幾何学を「ユークリッド幾何学」と言い、この世界を記述するのに適した幾何学として、この土台の上でその後の数学者たちは研究を続けることになりました。


アルキメデス:円周率や放物線の研究をした
アルキメデス(Archimedes, 紀元前287年頃〜紀元前212年)は、エウドクソスの取りつくし法を利用し、円周率や放物線について研究した数学者です。


(出典:Domenico Fetti, Public domain, via Wikimedia Commons)
- 正96角形を用いて円周率を$~3.14~$まで正確に求めた。
- 放物線の面積を取り尽くし法によって求めた。
- 円錐と球と円柱の体積比が$~1:2:3~$であることを求めた。
アルキメデスが円周率を求めた方法は、正多角形を円の内側と外側に作って、それらの周と比較する方法です。
正六角形であれば、下の図のように$~3 < \pi < 2\sqrt{3}=3.464\cdots~$までしか求められませんが、これを正96角形まで行うことで、$~\displaystyle 3.140\cdots < \pi < 3.142 \cdots~$というところまで値を絞り込みました。




エラトステネス:地球の大きさを計算した
エラトステネス(Eratosthenes , 紀元前276年頃〜紀元前194年頃)は、天文学で数学が使えることを世の中に示した数学者です。


(出典:From Wikimedia Commons, the free media repository)
- 素数を発見するためのアルゴリズムを発見した。
- 図形の性質から、地球1周の大きさを誤差$~+6000km~$で求めた。
エラトステネスが地球1周の大きさを測った方法は、以下の通り。
観測値から以下のような図をかくことができる。


この図において、平行線の錯角から$~\angle SOA=\angle CBA=7.2^{\circ}~$。
アレクサンドリアとシエネの緯度の差が$~7.2^{\circ}~$ということになるため、
925\times\frac{360^{\circ}}{7.2^{\circ}}=46250
より、地球1周の長さは250,000スタディア(46250km)と求められる。
シエネで太陽光が直角に入射する時間に、アレクサンドリアにおける木の影の長さを観測し、それらの情報に図形的な性質を適用することで地球の大きさを求めました。
エラトステネスはこのような形で、天文学において数学が有用であることを世の中に示しています。


アポロニウス:円錐曲線を研究した
アポロニウス(Apollonius,紀元前262年頃〜紀元前190年頃)は、メナイクモスが使った円錐曲線を再定義し、放物線、楕円、双曲線の性質を幾何的に証明した数学者です。


(出典:Giovanni Battista Memo, Public domain, via Wikimedia Commons)
- 1つの円錐の切り口の図形から、円、放物線、楕円、双曲線を定義した。
- 3つの円錐曲線(放物線、楕円、双曲線)の性質を幾何的に(座標を使わずに)証明した。
- 2点からの距離の比が等しい点の軌跡から「アポロニウスの円」ができることを示した。
アポロニウス以前では、違った形状の円錐の切断面から円錐曲線を定義していたものの、アポロニウスはよりシンプルな定義へと変えました。
1つの円錐に対して、
- 底面と平行な平面で切断すると、円の形になる。
- 底面と平行でなく、2本の母線を通るような平面で切断すると、楕円の形になる。
- 1本の母線と平行な平面で切断すると、放物線の形になる。
- 2本の母線と平行でない平面で切断すると、双曲線の形になる。


アポロニウスの研究を超えることができたのは、座標や関数の概念が生まれた17世紀以降。
それほどまでに高いレベルでアポロニウスは円錐曲線を追究したのです。


ヒッパルコス:三角比の概念を確立した
ヒッパルコス(Hipparchus、紀元前180年頃〜紀元前125年)は、どちらかと言えば天文学者で、天文学をするために三角比の原型を導入しました。


(出典:William Henry Smyth, Public domain, via Wikimedia Commons)
- 円の1周を360°に分割した度数法を考案した。
- $~\sin{}~$の原形である$~chord~$を定義し、三角比の表を作成した。
- 月の直径や、月までの距離をほぼ正確に求めた。
ヒッパルコスが定義した$~\sin{}~$の基となる$~chord~$は、以下のように定義されました。
円の弧の長さを$~\alpha~$とする。
このときの弦の長さを$~chord(\alpha)~$(略して$~crd(\alpha)~$)と定義する。


この$~chord~$と$~\sin{}~$の間には、以下のような関係が成り立ちます。
半径$~1~$の円において、$~chord~$と$~\sin{}~$には以下のような関係がある。
crd(\alpha)=2 \sin{\frac{\alpha}{2}}




論理数学から実用的な数学への過渡期だった
アレクサンドリアが位置するエジプトでは、古代エジプトの『リンド・パピルス』からもわかるように元々実用的な数学が使われていた地でした。
アレクサンドロス大王がエジプトに論理数学という古代ギリシャの風を吹き入れたものの、再度実学重視の流れが共和制ローマの侵攻により始まることになります。
ヘレニズム時代の数学者たちは、その過渡期である難しい時代を生き抜いたのでした。



だんだんと自由がなくなってきたんだね。



学者の研究内容は、その時代の為政者の意向に左右されてしまうからね。ただ、天文学はどんな時代でも重宝されたから、それを数学とつなげたエラトステネスの功績は大きかったんだ。
参考文献(本の紹介ページにリンクしています)
- 『カッツ 数学の歴史』,pp.70-72,136-148,162-165
- 『メルツバッハ&ボイヤー 数学の歴史Ⅰ』,pp.97-161
- 『数学の流れ30講(上)ー16世紀までー』,pp.82-89,91-94,111-113
- 『数学の歴史物語』,pp.77-100,113-120
- 『世界数学者事典』
- 『フィボナッチの兎 偉大な発見でたどる数学の歴史』,pp.44-45,
- 『ギリシャ数学史』,pp.164-166,221-224,226-277,283-304
- 『高校数学史演習』,pp.100-120.
- 『図解教養事典 数学』,p29,33-35
- 『数学者図鑑』,pp.24-28,70-85
- 『数学を切りひらいた人びと1-数学を生んだ父母たち』,pp.49-67.
- 『素顔の数学者たち』,p13,14,16.
- 山川出版社『詳説 世界史図録』,pp.20-21.,
- 山川出版社『詳説 世界史B』pp.35-40.
- 小学館『学習まんが 世界の歴史②』,pp.130-173
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