紀元前334年からの約300年間は、アレクサンドロス大王の東方遠征をきっかけに、ギリシャ文化と東方文化が融合した特異な時代となっています。
この期間を、ギリシャ風を意味する「Hellenistic」に由来して「ヘレニズム時代」と呼んでいます。
ヘレニズム時代ではポリスの枠組みから解放された個人主義を背景に、エジプトのアレクサンドリアは学問と文化の中心地として特に繁栄し、数学を含む多くの分野で革新的な研究が行われました。
本記事では、ヘレニズム時代の歴史背景とともに、アレクサンドリアを中心に発展した数学の方向性について詳しく解説します。
時代 | 紀元前334年(アレクサンドロス大王の東方遠征)~紀元前30年(プトレマイオス朝エジプト滅亡) |
場所 | アレクサンドリア |
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ヘレニズム時代の歴史
ポリスを作らなかったギリシャ人の一派であるマケドニア。
紀元前338年にアテネを制圧した後、紀元前334年にアレクサンドロス大王の指揮の下、東方遠征が開始されたことでヘレニズム時代が始まりました。
アレクサンドロス大王の東方遠征
少年期にアリストテレスやメナイクモスに教わったアレクサンドロス大王は、父であるフィリッポス2世が急死した紀元前336年に、20歳でマケドニアの王に即位します。
![アレクサンドロス大王](https://mathsuke.jp/wp-content/uploads/2024/05/image-39.png)
(出典:Giovanni Dall’Orto, Attribution, via Wikimedia Commons)
紀元前334年、かつて何度もギリシャに攻めてきたペルシャを討つために東方遠征を開始します。
紀元前331年にその目的は果たしましたが、アレクサンドロス大王はさらに東方へと侵攻。
結果的にインド西北部まで到達し、東西に広がる帝国を築きました。
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(出典:Generic Mapping Tools, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons)
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インドは戦争用の象を有していて、これ以上東方に向かうことは難しいと判断したよ。
大王の急死で3つに国が分かれた
インド西北部に達した後、バビロンにまで戻ってきたアレクサンドロス大王は、熱病にかかります。
後継者を明言しないまま、急死してしまいました。
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一番強い者が、この帝国を治めてく‥れ‥‥
そのため、大王の後継者(ディアドコイ)たちが広大な領土をめぐって争い、主にアンティゴノス朝マケドニア、セレウコス朝シリア、プトレマイオス朝エジプトの3つに分かれることになったのです。
![紀元前303年のアレクサンドロス大王の旧領土](https://mathsuke.jp/wp-content/uploads/2024/05/image-44-1024x470.png)
![紀元前303年のアレクサンドロス大王の旧領土](https://mathsuke.jp/wp-content/uploads/2024/05/image-44-1024x470.png)
(出典:Javierfv1212, Public domain, via Wikimedia Commons)
プトレマイオス朝エジプトの滅亡
紀元前3世紀はじめに、ディアドコイたちの戦争がある程度一区切りつきます。
この時期、ギリシャよりもさらに西のイタリアでは、ローマが徐々に力を伸ばしていました。
領土を拡大するローマに対し、紀元前168年にアンティゴノス朝は敗北。
さらに、紀元前64年にセレウコス朝もローマの属州となります。
最も長く存続したプトレマイオス朝エジプトも、ローマのオクタウィアヌスとの戦争に敗れ、紀元前30年にヘレニズム時代は幕を閉じることとなりました。
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(出典:Laureys a Castro, Public domain, via Wikimedia Commons)
ヘレニズム時代の数学
この時代を築いたアレクサンドロス大王やその後継者たちも、元々はギリシャ北方のマケドニア出身。
そこに、征服地であるオリエント(エジプトやメソポタミアなど)の文化が混ざり、ギリシャ風の文化が誕生しました。
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アレクサンドリアが学問の中心地
アレクサンドロス大王の側近として活躍したプトレマイオス1世は、亡き大王の意志を継ぎ、首都アレクサンドリアを学問に中心地にしたいと考えました。
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(出典:Louvre Museum, Public domain, via Wikimedia Commons)
そこで、2つの学問施設を作ります。
プトレマイオス創設の施設 | 特徴 |
ムセイオン | アリストテレスの学校「リュケイオン」を手本にした研究所。数学などの自然科学が研究された。 |
アレクサンドリア図書館 | ムセイオンに隣接する図書館。アテネをはじめとするさまざまな周辺地域の書物を強引に集め、蔵書数50万冊以上を誇った。 |
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大金を払ってでも古書を買い、寄港した船から書物を借りて転写せよ!
なんなら、借りパクしてもかまわん!
また、プトレマイオスは周辺地域の有名な科学者たちに大金を払ってムセイオンに集め、上の表のような恵まれた環境の中で研究活動に取り組んでもらいました。
このときに呼ばれた研究者の中には、アテネに住んでいたユークリッド(Euclid , 紀元前330年頃~紀元前275年頃)も含まれており、その後の数学者たちもアレクサンドリアで研究に励んでいます。
![ユークリッド](https://mathsuke.jp/wp-content/uploads/2024/05/image-50.png)
![ユークリッド](https://mathsuke.jp/wp-content/uploads/2024/05/image-50.png)
(出典:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons)
ギリシャ数学が基礎
ヘレニズムという言葉は、ギリシャ風を意味する「Hellenistic」に由来します。
数学においても、ヘレニズム時代初期の数学はギリシャ数学の延長線上にありました。
証明を重視する論証数学であることの他に、ヘレニズム時代の数学者たちとギリシャ数学には以下のような関連が見られます。
生年~没年 | ギリシャ数学との関係 | |
ユークリッド | 紀元前330年頃~紀元前275年頃 | ギリシャ数学をまとめた『原論』を出版し、その後の数学の基盤となった。 |
アルキメデス | 紀元前287年頃~紀元前212年 | エウドクソスの取り尽くし法を利用し、円周率の計算や放物線の求積を行った。 |
アポロニウス | 紀元前262年頃~紀元前190年頃 | メナイクモスが利用した円錐曲線を追究。これらの曲線の持つ性質を100個以上証明した。 |
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使っていた数字もギリシャ数字じゃよ。
実学重視の数学
アレクサンドリアを中心に栄えたヘレニズム時代の数学。
しかし、ローマの力が増大していくにつれ、アレクサンドリアの数学者たちに求められたのは国の繁栄のために利用できる実用数学でした。
生年~没年 | ギリシャ数学との関係 | |
エラトステネス | 紀元前276年頃~紀元前194年 | 数学を地理学に応用し、地球1周の長さを求めた。 |
ヒッパルコス | 紀元前180年頃~紀元前125年頃 | 数学を天文学に応用し、三角比を定義して天体の動きを理解した。 |
ちなみに、ローマも実学重視の考え方を持っており、ローマの領土となった紀元前30年以降もアレクサンドリアを中心に実学重視の数学が育っていきました。
まとめ
ギリシャ風の時代であるヘレニズム時代について、背景となる歴史とそれがもたらした数学の方向性を解説してきました。
- アテネのアカデメイアから、エジプトのアレクサンドリアへと学問の中心地が移った。
- ヘレニズム時代初期は、ギリシャ数学に由来する学問的な数学が成長した。
- ローマの強大化に伴い、求められる数学が実用重視なものへと変化していった。
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あれ?順調に発展していた数学の雲行きが怪しくなってきた‥。
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ご名答。この後、ローマの実用重視の姿勢やキリスト教の学問軽視の姿勢が数学を衰退させていくよ。
参考文献(本の紹介ページにリンクしています)
- 『メルツバッハ&ボイヤー 数学の歴史Ⅰ』,pp.97-158
- 『世界数学者事典』
- 山川出版社『詳説 世界史図録』,pp.20-21.,
- 山川出版社『詳説 世界史B』pp.35-40.
- 小学館『学習まんが 世界の歴史②』,pp.130-173
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