かの有名な哲学者ソクラテスの弟子であり、アリストテレスの師でもあるプラトン。
プラトンは、イデア論とアカデメイアの創設を通じて、後世の数学の発展に深い影響を与えました。
この記事では、プラトンのイデア論が数学、特に幾何学にどのように適用されたのか、そしてプラトンが創設したアカデメイアが数学の発展にどのように寄与したのかを解説!
プラトンが幾何学を重視した背景には、師であるソクラテスの死が絡んでいました。
時代 | 紀元前427年~紀元前347年 |
場所 | ギリシャ |
プラトンの生涯
プラトン(Plato , B.C.427頃~B.C.347頃)は、古代ギリシャのソフィスト(哲学者)です。
数学者ではないものの、彼の活動はその後の数学界に大きな影響を与えました。
プラトンの年譜
ギリシャのアテネで生まれる
本名は「アリストクレス」という説が濃厚。
アテネを代表するレスラーとして活躍する
このときのリングネームが、彼の広い肩や堂々とした体格を意味する「プラトス(広い)」に由来する「プラトン」で、その名前が現在まで定着している。
ソクラテスの弟子となる
ソクラテスが紀元前399年に死ぬまでの8年間、門人として仕えた。
アカデメイアを設立する
数学、とりわけ幾何学を重視した学校で、エウドクソスやアリストテレスといった卒業生も輩出している。
アテネで死亡
プラトンの活動場所
プラトンが生まれ、人生の大半を過ごし、没した地はギリシャのアテネです。
アカデメイアを負う説する前、地中海地域を旅行し、キュレネでテアイテトスと共にテオドロスから無理数について学んだり、マグナ・グラエキアでアルキュタスから数学の重要性を学んだりしています。
シラクサを訪れたこともあり、その地の僭主(非合法な独裁的支配者)ディオニュシオスに殺されそうになったところをアルキュタスに救われてアテネに帰ってきたというエピソードもあります。
数学はイデア論で重要な学問
プラトンの哲学は「イデア論」と呼ばれており、この考え方において数学は重要な立ち位置を占めています。
イデアと現実をつなぐのが数学
プラトンのイデア論は、この世のあらゆる現象は不完全な「影」であり、真の実体は不変で普遍的な「イデア」にあるという考え方です。
影を追究する天文学や機械学と、イデアを扱う哲学をつなげる役割を果たしているのが数学であるとプラトンは説きました。
師であるソクラテスが処刑されるのを見て、哲学を知る者が政治家にならなければならないと考えたプラトンは、アカデメイアを創設して哲学を理解できる若者を育てようとしたのです。
数学はイデアへの橋渡し役
数学は、この世界に存在する感覚的な物と、イデアの世界に存在する抽象化された概念を結び付ける重要な学問という位置づけでした。
例えば、紙に直線を書くことを考えると、その書いた直線は「真の直線」ではありません。
なぜなら、現実世界で書いた直線は太さを持っており、限りなく線を伸ばし続けることは不可能だからです。
しかし、イデアの世界であれば真の直線を引く(想像する)ことは可能です。
このようにプラトンは、数学が取り扱う図形や数は、この可視的な世界のものではなく、イデアの世界に属する純粋な存在であると主張しました。
このため、数学はイデアを追求する学問であり、真理を探究する手段として重要視されたのです。
アカデメイアを創設した
プラトンが紀元前387年に応接した学園・アカデメイアは、約900年後の529年に閉鎖されるまでの間、プラトン自身のイデア論を形にすると同時に、数学界において大きな役割を果たしました。
教育における数学の価値が上がった
アカデメイアのカリキュラムは、数学や天文学など多岐にわたる学問を履修した後、哲学を学ぶという流れで行われていました。
数学の中でも、幾何学は論理的思考力も必要となってくるため、哲学を学ぶ前段階でプラトンが最重要視していました。
その証拠にもなっているのが、アカデメイアの入口にプラトンが作ったという看板。
幾何学を知らぬものは、くぐるべからず
と刻まれた看板には、幾何学を通じて論理的思考や抽象的概念を理解することが、哲学を学ぶ上で不可欠であるという彼の考えが示されています。
ちなみに、幾何学についてプラトン自身は、「プラトン立体」と呼ばれる5つの正多面体が持つ哲学的な意味を考え、著書の中に記しています。
アカデメイア出身の数学者
プラトンは「数学者育ての親」とも呼ばれるほど、アカデメイアを通じて著名な数学者や哲学者たちの教育に携わっています。
人名 | 主な功績 | アカデメイアやプラトンとの関係 |
エウドクソス (B.C.408頃~B.C.355頃) | 取りつくし法や比例論を確立した | アカデメイアの評判を聞いて、借金をして地元クニドスから上京。紀元前385年頃に入学したものの、アテネは家賃が高くて住めず、7km離れたアテネ郊外から毎日通った。卒業後、同校で教員としても活躍した。 |
ディノストラトス (B.C.390頃~B.C.320頃) | 円積線を円積問題に応用した | 弟のメナイクモスと一緒に通学したかも?(同じ時期に通っていたかは不明) |
メナイクモス (B.C.380頃~B.C.320頃) | 円錐曲線を利用して、立方体倍積問題を研究した | 兄のディノストラトスと一緒に通学したかも?(同じ時期に通っていたかは不明) また、卒業後の進路はアレクサンドロス大王の家庭教師で、同じく家庭教師だったアリストテレスともつながりがある。 |
アリストテレス (B.C.384~B.C.322) | 三段論法を提唱したり、定義や定理などの数学用語を整理した。 | 紀元前367年に入学。学園内では読書家で有名で、20年間プラトンの下で研究をした。卒業後は、アレクサンドロス大王の家庭教師をしたり、リュケイオンという学校を創設したりした。 |
まとめ
プラトンは哲学者でありながらも、数学界に深い影響を与えた人物です。
プラトンのイデア論は、数学の図形を理想的なイデアとして捉える考え方に反映されており、彼が創設したアカデメイアは、数学を含む多岐にわたる学問の発展の場となりました。
- ソクラテスの死により、哲学に通ずる者が政治を行うべきと考えたプラトンは、アカデメイアを創設し人材育成を図った。
- イデアを扱う哲学を学ぶにあたり、数学が真理を探究する手段として重要視された。
- 数学に重きが置かれたアカデメイアで、エウドクソスやメナイクモスなどの高名な数学者が育った。
なんでアカデメイアのような伝統校が529年に閉鎖されちゃったの?
その時代はキリスト教が力を持っていて、イエス・キリストが生まれる前から存在していた非キリスト学校だったがために、ユスティニアヌス帝に目を付けられてしまったんだ。
参考文献(本の紹介ページにリンクしています)
- 『カッツ 数学の歴史』,pp.62-64
- 『メルツバッハ&ボイヤー 数学の歴史Ⅰ』,pp.80-86
- 『数学の流れ30講(上)ー16世紀までー』,p.58
- 『数学の歴史物語』,pp.49-51
- 『世界数学者事典』,p.23
- 『数学者図鑑』,pp.19-21
- T・L・ヒース著,平田寛・菊池俊彦・大沼正則訳(2009)『復刻版 ギリシア数学史』,pp139-151
- 『素顔の数学者たち』,p.9
コメント